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視点オピニオン21

関孝和の職務 甲府藩で会計、検地

前橋工科大名誉教授 小林龍彦
 
 内山永明の次男として生まれた孝和は関五郎左衛門の養子となった。養父は1665(寛文5)年8月に没したと伝わるから、養子縁組はそれ以前に成っていたことになる。その養父は桜田殿御勘定の職にあった。桜田殿とは、3代将軍徳川家光の三男綱重の屋敷の所在地に由来する通称で、寛文元年に甲府25万石の藩主となり、甲府宰相と呼ばれた。御勘定は会計を担当する役職で、養父は藩邸でその仕事にあったことになる。

 関家を継ぎ甲府藩士となった孝和はどのような職務に就いたのだろうか。寛文5年ごろといえば、20代前半にあたる。このころの関は算学の修養に励んでいたと思われるが、その力を生かす藩務にあったかどうかは不明だ。藩主を護衛する小十人組であったと伝える史料もある。1678(延宝6)年、綱重は35歳で没し、長男の綱豊が襲封した。

 綱重が没する4年前の延宝2年に関孝和は「発微算法」を刊行して、世間が注目する数学者になり始めていたが、藩での職務は依然わからない。甲府藩では立藩以来頻繁に検地を実施し藩財政の確立に努めていた。しかし、財政は苦しく幕府から支援を受けることたびたびであった。また、延宝初めのころには甲府領民が飢饉(ききん)訴訟で江戸へ詰め寄る騒動も起きていた。1684(貞享元)年から貞享2年にかけて行われた甲府領内の検地の写しがある。これの裏表紙に検地役人として関新助、戸田嘉兵衛、萩原孫四郎の3人の名前が連記され、それぞれの名前の下に印が押されている。孝和の印は「孝和」を左文字(ひだりもじ)にした黒の丸印であった。

 1695(元禄8)年に作成された甲府藩の分限帳がある。ここで関は「甲府様御賄改、役料十人扶持(ふち)、二百俵、蝶、天龍寺前、関新助」と記される。このころは賄い改めの職にあって200俵10人扶持を賜り、家紋は蝶、居宅が天龍寺前であったことになる。天龍寺は、いまの新宿区新宿三丁目にある天龍寺を指すか。ここから桜田邸まで徒歩で通勤したのであろうか。御賄改の職には藩邸御用商人への対応も含まれていた。

 元禄11年から12年は、甲府藩の国絵図作成事業にかかわり、信州との国境の確認に勤(いそし)しんだ。元禄12年には儒者の新井白石が召し抱えられ、孝和と同僚の間柄になった。その白石が元禄15年12月に200俵20人扶持へ昇給した際、孝和は藩の重臣らと共に証書に裏書き保証をしている。

 1704(宝永元)年、綱豊は5代将軍徳川綱吉の嗣子として江戸城の西丸に入城するが、甲府藩士もすべて主君に従った。この異動で関孝和は西丸御納戸組頭250俵10人扶持を仰せつかった。幕府直参旗本となったのである。

 このように関孝和は甲府藩士・幕臣として仕え、財政管理や検地を担当する役人として生涯を終えたのである。



前橋工科大名誉教授 小林龍彦 桐生市相生町

 【略歴】高知県出身。法政大第二文学部卒。東京大で博士(学術)取得。専門は数学史。前橋工科大教授を2013年に退任。県和算研究会会長としても活動している。

2017/03/11掲載