文字サイズを変更する
小
中
大
 

視点オピニオン21

鈴ケ岳と仙人 後世に鎌倉古道伝える

郷土史愛好家 須藤征吾
 
 青春の多感な時代、毎日仰ぎ見ていた赤城山鈴ケ岳と別れて、18歳で上京し就職した。故郷を忘れるほどの過酷な東京砂漠の中で、必死に自分を変え、仕事に埋没して十数年が過ぎた。

 ある日の休日、私は突然鈴ケ岳の山裾に立っていた。

 まさに山に呼ばれた思いであった。

 登山の経験は全くなく、登山道も分からず、ただ山麓の原生林を歩いた。

 この緩やかな空間に満たされ、安逸の充足感の中に満足している自分がいた。

 あるとき、唐突に人に出会った。手製のつえを持ち、腰には頑丈な鉈なたをつるした眼光鋭い老人であった。遠くからお互い様子をうかがい離れたが、2度目の出会いの時に意を決して声を掛けた。

 老人は「おみいはここで何してる」と、厳しい目つきで詰問してきた。

 私は、鈴ケ岳の登山口と村史で昔読んだ鎌倉古道を探していることを告げた。

 老人の目が緩み、いつかふたりは雑草に腰を下ろして話し込んでいた。別れ際に「この山の古道は、今は俺しか分からねえ。山のことは全部教えべえ」と、歯のない口でカラカラと笑った。

 以後、この老人Sさんを仙人と呼び、長い交誼(こうぎ)が始まった。

 仙人は博学であった。山の古道の歴史や薬草、薬木等、多岐にわたり教えを受けた。

 鈴ケ岳の山上は、山岳信仰の石碑や修験道の事跡にあふれていた。

 1947(昭和22)年のカスリーン台風により、鎌倉古道は寸断されていた。

 「山が動いた。俺は二度と水害に遭わねえように50年も植林した。いい山になったいのう」。生育した美林を見て目を細める仙人であった。

 前橋から赤城山を経て沼田に至る鎌倉古道は、鈴ケ岳の西麓だけは被害を免れた。

 「王平」「御殿山」は明瞭に古道の面影が残っていた。

 王平には、2個の大石が供え餅のように重なっていた。「この石の上で豊城入彦尊が訓示したっつうのう」。仙人の説明であった。

 御殿山には尊の住まいがあったという。

 古道は沼尾川を渡り、「長壺」からローソク岩の西を伊賀峰の鞍部に出て「竜の寝穴」に下りる。荷場を登りつめて砂川方面に抜けた。ここには大沼に抜ける車道がない。赤城外輪の崖が幸いして原生林が健在している。

 私はこの30年間、7回熊に出合った。

 この豊かな原生林に残る鎌倉古道を語り継ぎ、2、3人の同好の士も得た。

 ぜひこの古道の存在を郷土の子どもたちに伝えたいと考えている。

 今年は仙人が逝去して18年になる。



郷土史愛好家 須藤征吾 渋川市赤城町

 【略歴】渋川高卒業後、警視庁に入り、警視で退職。2009年に帰郷、地元鈴ケ岳を中心に地域の歴史や文化を掘り起こす活動を続ける。山椒工房鈴匠代表。

2014/11/21掲載