文字サイズを変更する
小
中
大
 

視点オピニオン21

「老いを活きる」 宗教者の関わり再考を

臨床宗教師 井出存祐
 
 誰でも生きている限り「老い」を重ねます。老いは加齢に伴う生理的、心理的、社会変化のことです。加齢とともにさまざまな変化が起こります。特に後期高齢者には多くの失調が顕著に認められます。超高齢者のおよそ8割が複数の疾患を併発しており、認知機能の著しい低下が見られ、また配偶者との死別や施設への入居、複数回の入院などの社会的な経験をしています。日常の生活面では肯定的側面を喪失し、心理的な適応が衰弱していく中で人間として尊厳を失っていくといわれます。

 しかし、加齢による失調要素のみに着目すると「生きる」ことの困難さがクローズアップされますが、「老いを活(い)きる」ことはさまざまな失調や衰えとも向き合い、折り合いをつけて生きようとすること、老いによる変化を通じて発達するものを見つけることがよいことです。

 例えば、私の経験からして老人施設における手芸、絵画、習字、会話、傾聴などの活動は非常に有効なものと言えます。例外では90歳を過ぎても辞書を片手に翻訳をする人、作詞・作曲を手掛ける人もいます。老いによる変化の中で失調要素と抗しながら、いかに首尾よくやるかが課題であるが、超高齢者には向き合い方が困難になる場合が多いのです。

 超高齢者と傾聴活動をする中で、よく耳にするのが「ポックリ逝きたい」「お迎えがほしいがどうしたらよいか」という話です。明確な回答はありません。なぜポックリ逝きたいのか。それは①死に際の痛みに対する恐れ②寝たきりになる恐れ③人の世話になりたくないという望み―です。ポックリ逝きたいというのは「死」への願望であるにもかかわらず長寿願望である「生」と同根といえます。

 「ピンピン生きてコロリと逝こう」と願い、ポックリ寺参り、ピンコロ地蔵参りという言葉があります。こうした状況を生きる中での超高齢者の振る舞いを考えると簡単に非難できません。宗教者からみて、高齢者をどう捉えるか大切なことです。現代社会では、衣食住はほぼ満足に届けられた状況だと思います。そうした中で宗教者との関わりはどうか、問い直すことが必要です。

 法話のテクニックや内容の研究、論文を書いたり本を読んで知識を得ることも必要ですが、高齢者や患者さんの立場からすると、下手な説教や高度な教義よりも信頼される宗教者として新しい場の提供をすべきです。例えば、医師の立場で言えば理屈ではなく、人間として納得を得る診療が大切であるのと同じです。

 いま、日本社会は少子高齢化と言われます。これは宗教団体の根幹を揺るがす大きな問題なのです。次回は宗教団体(法人)の実態を解説してみましょう。



臨床宗教師 井出存祐 前橋市龍蔵寺町

 【略歴】安中市出身。立正大経済学部卒。商業科教員として37年間公立高校に勤務。国際宗教研究所会員。安中市・実相寺院首(いんじゅ)。宗教法学会賛助会員。上州良寛会参与。

2017/07/23掲載