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視点オピニオン21

関孝和の弟子 師を尊崇し新領域へ

前橋工科大名誉教授 小林龍彦
 
 研究者の仕事は、その分野の新しい領域を切り開くことにある。だが、研究を継続・発展させるために弟子の育成も必須となる。後世に「算聖」とうたわれた関孝和にも卓抜な才能をもつ弟子がいた。

 関がいつ頃から弟子を取るようになったかはわからない。しかし1674(延宝2)年に版行した『発微(はつび)算法』に、校正者三瀧郡智と三俣久長の名前が見えるから、この頃には弟子がいたことになる。三瀧には小泉次郎兵衛を名乗る門人がいて、小泉の弟子に上州山田郡毛里田村只上(現太田市只上町)の板橋定四郎がいたが、詳細は不明である。

 関の弟子にあって異彩を放ったのは建部賢之(かたゆき)・賢明(かたあきら)・賢弘(かたひろ)の3兄弟であろう。建部家は直参旗本の右筆として徳川将軍家に仕えたが、3人は家職を継ぐことはなかった。関塾への賢之の入門時期は不明だが、弟たちは関の数学者としての名声を慕って、1676(延宝4)年に入門した。賢明16歳、賢弘13歳のことであった。

 1683(天和3)年夏、孝和、賢明、賢弘の3人は相議して数学書の編さんを開始した。その目的は、世間にまん延する誤った数学を払拭(ふっしょく)し、門下の成果を残らず著すことで、後世に「正統」な数学を伝えることにあった。編集は「元禄ノ中年」に終わり、『算法大成』12巻として成立したが、なお推敲(すいこう)の余地が残された。しかし、この頃の関孝和は「老年ノ上、爾歳(じらい)病患ニ逼(せま)ラレテ考検熟思スル事能(あた)ハズ」状態にあり、弟の賢弘は公務繁多な身にあって、再編集は賢明の手に委ねられることになった。賢明による見直しは1701(元禄14)年冬に始まり、10年後の宝永の末年に終わり、『大成算経』20巻として成った。この大著は近世日本数学史上に燦然(さんぜん)と輝く一大集大成書と呼べて、関と建部兄弟による研究成果が余すことなく収められており、彼らの到達点が鮮明となる。

 賢弘は、6代将軍家宣、7代家継、8代吉宗に仕えた有能な幕臣にして、天才的な暦算家であった。特に、吉宗が推進する数理科学政策の一翼を担って献身したが、その一つに『享保日本図』の作成がある。これは『元禄日本図』のゆがみを大幅に修正する画期的な仕事となった。また、1722(享保7)年に『綴術(てつじゅつ)算経』を吉宗へ献上した。これには賢弘の数理哲学観が示されるだけでなく、円弧背の長さが無限級数展開で求められることも明らかにした革新的な著作であった。賢弘による成功は後の円理研究の原動力になった。

 師の孝和が至らなかった新領域を切り開く賢弘であったが、師を「神」と呼んで尊崇することも忘れなかった。それは未踏の地平に突き進んだ真の後継者であったからこそ、師への畏怖と敬愛からの発露であった。



前橋工科大名誉教授 小林龍彦 桐生市相生町

 【略歴】高知県出身。法政大第二文学部卒。東京大で博士(学術)取得。専門は数学史。前橋工科大教授を2013年に退任。県和算研究会会長としても活動している。

2017/09/10掲載