米軍の港湾施設があるホワイト・ビーチを臨む高台で、現地の校長から説明を受ける椎名さん(右から4人目)ら豆記者。基地は現在も存続している
椎名さんが写したホワイト・ビーチ。桟橋とみられる施設が海に向かって延びている

 沖縄の日本復帰から15日で50年を迎えた。群馬県内には復帰直前の沖縄に中学生の「豆記者」として入り、現地の暮らしや基地の様子を取材した男性がいる。当時の沖縄は米国の施政権下。少年の目には、米軍基地がもたらす功罪が驚きとともに映った。復帰後の沖縄は、わずかな県土に集中する基地問題を抱えながらも、観光を基幹産業に発展を遂げた。半世紀が経過し、男性は「沖縄ならではの新たな戦略で、さらなる発展を」と願っている。

 男性は、みどり市議で市内で贈答品店を営む椎名祐司さん(66)。大間々中2年の時、本土と沖縄の小中学生が参加する「本土沖縄豆記者交歓会」の豆記者として、1970年末から、年をまたいで12日間の日程で沖縄を訪れた。

 69年に当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領は、共同声明で72年の返還を発表、71年には返還協定に調印した。椎名さんが訪れたのは、復帰への期待と不安が入り交じる時期だった。

生活水準は基地が左右

 滞在中は沖縄側の豆記者2人の自宅で寝泊まりした。1軒は都市的な石川市(現うるま市)、もう1軒は農業が盛んな宜野座村。石川市で生徒の父親に基地について尋ねると、「みんな基地で食べている。なくなるのは困る」と返ってきた。この父親は基地関係の仕事に就き、暮らし向きは豊かに見えた。パイナップルを育てる宜野座村の生徒宅とは、まるで違ったという。

 「基地で食べていくとは、こういうことか」。地域や暮らしの水準が、基地に大きく左右される。当時の椎名さんの目には、同じ沖縄の中にありながら揺るぎない格差と映った。石川市長への取材の際、復帰後に基地が縮小・撤廃された場合の雇用の行方を問うと、答えに窮していたことは今でもよく覚えている。

 移動する道沿いには、延々とフェンスが続いていた。フェンスの向こうには基地が広がる。おのずと「占領」という言葉が浮かんだ。石川市近郊の海を臨む高台では、交歓相手校の校長から米軍の港湾施設があるホワイト・ビーチについて説明を受けた。校長は「一番きれいな場所を米軍が使っている。復帰後は返還してもらえるのか」と不安を口にした。復帰後に一部は返されたものの、現在も基地として残る。復帰後の原子力艦船の寄港は600回以上。現在のうるま市は、安全上の懸念から関係機関に寄港の中止を求めている。

 訪問の直前には、コザ市(現沖縄市)中心部で「コザ暴動」が起きていた。暴動は米兵による交通事故が直接の契機だが、米施政権下での住民の反発が背景にあったとされる。訪れたときはまだ放火で焼け焦げた車両が残されていた。衝撃を受ける椎名さんに、滞在先の父親は「これが沖縄が抱える問題だ。よく見ておいてほしい」と語った。

「貧困の連鎖」どう断ち切るか

 沖縄への出発前、椎名さんの父親は「きれいな海だけでなく、沖縄の裏側をよく見てくるように」と送り出した。現地で見聞きしたのは、裏側と言うまでもなく、当たり前のようにある現実だった。住民からは米軍兵器に関する生々しい巷説も聞いたという。

 沖縄は「核抜き・本土並み」が掲げられた復帰から半世紀が経過した。主に観光業にけん引される形で経済が発展、メディアなどを通じて文化も広まった。だが、県民所得は全国平均の7割と低迷し、子どもに教育が行き届かない一因とされる。他の都道府県との格差を感じている県民は少なくない。

 新型コロナで沖縄の観光は大打撃を受けた一方、オンラインで社会や経済を回せる可能性が広がった。椎名さんは今後の沖縄の発展に、こうした情勢の変化が鍵を握るとみる。「東京との距離は関係ない。積み重ねてきたリゾートとしての強みと合わせ、さらなる経済発展の道筋を見出せるのではないか」と語っている。