復帰前、本土に渡る際に携帯した旅券を手にする糸数さん。「これを持たずに帰郷した時、希望がわいた」と振り返る

 沖縄の日本復帰50年となった15日、県内に住む沖縄県出身者やゆかりの人たちはそれぞれの思いを抱いて節目を迎えた。観光地としてイメージ向上が図られてきた一方、基地問題や本土との経済格差といった課題が根強く残る。東シナ海情勢の緊張を念頭に、「『平和の島』として発展してほしい」との声が上がった。

 「復帰前の沖縄には満足な勤め先がなかった。50年で見違えるほど発展した」。中学卒業を機に就職のため本土に渡った那覇市出身の糸数正さん(69)=前橋市天川町=は感慨深そうに目を細める。

 幼少期に野山で遊んでいると、太平洋戦争時の遺骨や不発弾があちこちで出てきた。大人から壮絶な艦砲射撃や集団自決の話を聞いて育ち、戦禍はなお身近だった。1972年の日本復帰に向けて「共通語教育」が徹底され、学校で禁じられた方言を使うと、罰として職員室に立たされた。

 68年、茨城県内への就職のため島を出た。当時は中学高校の卒業生の8割ほどが本土へ就職したという。米国の統治下だったため、琉球列島米国民政府が発行する旅券(パスポート)の「日本渡航証明書」を所持し、3日間の船旅だった。

 19歳の時に日本復帰がかない、20歳でUターンを決意。旅券を持たず、航空機での帰郷は「本当に自由になった。沖縄がいよいよ発展する」との希望を抱かせた。タクシー運転手として働き、その後の業界の不況などから勤め口を求めて前橋市に家族で移住した。

 復帰から半世紀がたち、観光産業を中心に発展し、多くの芸能人を輩出するようになった故郷をうれしく思う。基地問題が依然として残るが「本心は少しでも減ってほしいけど、基地に頼って生活する知人もいる。答えは出せない」。ロシアのウクライナ侵攻を踏まえ、「仮に中国と台湾で紛争が起きたら、沖縄が巻き込まれてしまうのではないか」と心配し、願う。

 「これから先も、きれいな海に囲まれた平和な島であり続けてほしい」

文化や歴史に関心を

 前橋市六供町の沖縄料理店「南国食堂 ちむどんどん」の男性店長(58)は沖縄県座間味村がルーツ。宮崎県などで育ったが、日本復帰前後は「沖縄出身というと差別を受けることがあった」と打ち明ける。

 復帰後、20代の頃に8年ほど同村に住み、観光関係の仕事をした。戦前世代を中心に「大戦時に切り捨てられた」「復帰後の観光開発でだまされた」などの被害感情が根深くあり、「ヤマトンチュー(本土の人)は嫌い」との声が強かったという。

 沖縄の歴史と共に、現地の人が抱く複雑な思いを知ってほしいとの気持ちもある。それでも、それ以上に「文化や食といった魅力を理解し、沖縄を好きになってほしい」と願う。店では復帰50年を記念したポスターを製作。6月中旬には店内で、節目を祝う伝統芸能エイサーのイベントを計画している。

 一方、「米軍基地問題が解決されないまま50年がたってしまった」と話すのは沖縄の伝統弦楽器、三線(さんしん)の喜納流アヤメ会群馬支部長で県内7教室を主宰する伊藤綾野さん(55)=同市龍蔵寺町。まえばしCITYエフエムで沖縄音楽の番組を持ち、沖縄県ゆかりの人との交流が深い。

 米軍基地に関わる事件や事故の度に胸を痛めてきたといい、国内の7割もの米軍基地が同県内に集中する現状を「沖縄に危険を押し付けたままの私たちの問題」と受け止める。今後も沖縄文化の発信と並行して、基地問題に向き合う団体への寄付や署名活動に参加していくという。