改修前の「老舗三俣せんべい」の本店。屋号と家紋が書かれたのれんが掛かっている
本店内に展示されている歴代のレジや当座帳。最も古いレジ(右上)の時、計算はそろばんでしていた
創業からこれまでの歴史を振り返る6代目の吉田将輝社長

 「三俣せんべい本舗」と書かれた大きな看板は、前橋市三俣町の交差点付近のランドマークとして親しまれている。老舗三俣せんべいは6代、166年にわたり三俣の地で素朴な味を伝えている。6代目の吉田将輝社長(54)は「この三俣で変わらず同じ物を作り続けてきたから今がある」と、この地で歩んできた長い年月を振り返った。

半農半商
 創業は江戸時代末期の1855(安政2)年。米農家の後継ぎで、周囲から蒸発したと思われていた創業者の吉田栄光(えいみつ)が、ある日突然、三俣の生家に戻り、自宅の軒先で余り米を焼いてせんべいを作ったのが始まりと伝わる。栄光は滞在先の川越でせんべい作りを学び、前橋に戻ってきたとされている。

 栄光は農業をしながら農家から余った米を預かり、せんべいの生地に加工。農家に引き渡していた。67(慶応3)年には屋号を「吉田屋」から「舎(やまよし) 吉田屋」に改めた。

 71(明治4)年に2代目となった息子の兼吉は、しょうゆ味に仕上げたせんべいの販売を始める。中央に穴が開くように整形されたせんべいにひもを通して妻が売り歩いた。この頃はまだ、せんべいを売りながら農業も営む「半農半商」だった。初代と2代目に関する資料は残っておらず、口伝によるものが中心だ。

 事業を拡大させたのは、兼吉の長男で、1913(大正2)年に3代目に就任した梅太郎だった。

 梅太郎は県内の同業者とともに、29(昭和4)年に現在の全国米菓工業組合県支部の前身を設立。会長を務めるなど業界の発展にも尽力した。

 33(昭和8)年には本店を新築。現在も同店のシンボルとなっている建物だ。裏には水車小屋を併設し、小川の水で水車を動かして石臼で米をひき、せいろで蒸した。遠方から買いに来るほど評判となり、地名を取った「三俣せんべい」の愛称で呼ばれるようになった。屋号も「三俣せんべい」に改めた。

 37(昭和12)年には初の直営店を市内紺屋町(現在の同市千代田町)の銀座通りにオープンするなど商才を発揮した。

闇米でも
 そんな老舗も太平洋戦争下の食糧難で、大きな岐路に立たされた。原料の米が手に入りにくくなり、せんべい販売をほそぼそと続ける一方で、竿(さお)ばかりも製造。戦争末期の44(昭和19)年からは職人がパン作りを学び、配給用のパンも製造した。枕サイズの大きなパン、通称「枕パン」が名物で、このような時期が5年ほど続いた。

 戦後もしばらくは県内で闇米の取り締まりが厳しく、米が手に入りにくい状況が続いた。組合の会長を務めていた梅太郎は、闇米を買った組合員が逮捕されるたび、身元引受人として何度も警察に足を運んだ。梅太郎自身も逮捕されたことがあったという。

 将輝社長は曽祖父の思いを代弁する。「せんべいを作れなかった時代は悔しい思いだったろう。闇米を手に入れてでもせんべいを作りたいという思いは、自分にもよく分かる」

【企業データ】
 ▽本社 前橋市三俣町
 ▽創業 1855年
 ▽従業員数 15人
 ▽店舗 本店、大間々さくらもーる店
 ▽事業内容 せんべいの製造販売

1855年 吉田屋創業
 67年 屋号を「舎(やまよし) 吉田屋」に改める
1933年 本店を新築
33~37年ごろ 屋号を「三俣せんべい」に改める
 59年 三俣せんべい有限会社設立
 65年 本店敷地内に工場新設
 82年 老舗三俣せんべい株式会社に組織変更
 93年 大間々さくらもーる店開店
2013年 本店を改修

1937(昭和12)年に前橋市紺屋町の銀座通りで初の直営店を開いた梅太郎(右から6人目)。ちんどん屋による宣伝も行われた。

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