竹久夢二は1930(昭和5)年5月、「榛名山美術研究所建設につき」と題した趣意書をしたためています。

 〈あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されていない〉。趣意書はこんな言葉で始まります。〈快適な生活のためには、まず衣食住から手をつけるとする〉〈吾々の必要と感覚は、吾々に絵画・木工・陶工・染織等々の製作を促すであろう〉〈吾々の教師はあくまで自然である〉といった記述からは、榛名の豊かな自然環境の中で、生活に即した物を創り出す決意がにじみます。

 〈商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗製品の送荷を断る〉と、大量生産の流れや流行にとらわれることにあらがう姿勢も鮮明。講演会や講習会、展覧会を開く、総合的な文化施設を目指しました。

 前年の3月、夢二は伊香保温泉の岸権旅館に宿泊した直後、〈山のへにわがあとりえをつくるとて榛名をさしてのぼる早春〉と詠んでいます。その頃は、スランプのため榛名のアトリエで隠せいを送りたいと考えていたようです。

 しかし、翌年に発表された趣意書には、以前とは異なる前向きな心境の変化を感じ取ることができます。当時の上毛新聞には、「県下の産業の美術化を図ろうとすることを真の使命として榛名山美術研究所建設が決定した」と報道されました。

 趣意書発表の翌年、長年の夢であった外遊に出発します。雑誌『若草』に、この時の心境を〈何よりも好いことは、こんどは出発に際して心にかかるものも、心に残る者も何もないことだ。ただ榛名山へ帰ってからの仕事のプログラムに希望はある〉とつづっています。ところが世界は大恐慌の折。思ったような展覧の成果を得ることができないばかりか、慣れない環境に体調を崩してしまいました。

 夢二は2年半におよぶ外遊を終えた直後から病に伏せ、34年1月に結核療養所に入院。9月1日、数え年51歳で帰らぬ人となりました。榛名山美術研究所は見果てぬ夢となってしまいました。

 夢二は、人間の「手による産業」の普及をたびたび訴えていました。当館には「竹籠のデザイン画」という、筆でラフに描かれた絵があります。研究所で実物を製作しようと思ったのか、具体的なサイズや仕様などが完成図とともに事細かに記されています。群馬には豊かな資源があり、夢二の秀でたデザイン力やバランス感覚が創作意欲を沸き立たせたのでしょう。

 現代においても、夢二の憂いていた機械化による大量生産が続いています。伝統工芸をはじめとする「手による産業」の中には、継承者不足などにより存続の危機にひんしているものが少なくありません。何が本当に大切なのか、もう一度考え直すことが大切なのかもしれません。

 【略歴】会社員を3年経験して1996年から竹久夢二伊香保記念館勤務。2016年から現職。17年に京都芸術大に編入。今春、芸術学士と学芸員の資格を取得し、卒業。

2022/5/26掲載