山城求め東へ西へ 偏愛の合戦場巡り

 城巡りが趣味の夫のお供をするうちに、あれよあれよと沼にはまってしまった40代記者。天守をいただいた近世城郭もいいけれど、〝好物〟は戦国の山城。歴史に残る合戦の場所に行って陣形や戦の展開を妄想するのも好き。そんな偏愛を満たしてくれる場所を求め、県内を北へ南へ、東へ西へ。いざ出陣!

関東最大の激戦地

 そよそよ揺らぐ麦の穂と青い空。のどかな田園風景とのギャップを感じずにはいられない。約7万の軍勢がぶつかり合い、死者は4000余り。戦国時代における関東最大の激戦と伝わる神流川合戦(1582年)ゆかりの場所が県南部(玉村町・高崎市新町)にある。

 滝川一益が陣をしいた軍配山古墳

 麦畑のその先に、ぽっかりと浮かぶように小さな丘が見える。軍配山古墳(玉村町角渕)だ。4世紀に造られたとみられる円墳で、「御幣山古墳」が正式な名前だということはあまり知られていない。神流川の戦いの際、滝川一益が陣をしいて指揮したことから「軍配山」と呼ばれている。

 戦の発端は、遠く離れた京で起きた本能寺の変(6月2日)。厩橋城(前橋市)の城主、一益は主君・織田信長の死を知り、すぐに仇討ちに向かおうとする。これを阻もうと動いたのが小田原城を拠点とする北条氏。6月18~19日、上野・武蔵国境の神流川付近でぶつかった。

ひしめく軍勢思い浮かべ

 茂る草をかき分けて一益の本陣に上る。高さは6メートルほどか。マツが枝を広げる墳頂で、南の神流川方向を眺める。主戦場は直線距離で約2.5キロ先、陸上自衛隊新町駐屯地(高崎市新町)の辺りだが、烏川の堤防や住宅があって遠望できない。一益率いる上野国衆は1万8000ほど、北条軍は5万を超えるとも伝わるから、ここからでも敵味方がひしめく様子が望めただろう。

墳頂から神流川(南)方向を眺める


 しばし、戦場の喧騒を妄想し、古戦場跡へ向かう。

 一帯は駐屯地のため近づくことはできない。合戦の歴史を伝えるのは石碑。これまで神流川橋の群馬県側のたもとにあったが、橋の付け替え工事に伴って国道17号を南に少し入ったJR高崎線の線路脇に移されている。

清須会議に間に合わず

 碑を写真に収め、もう少し雰囲気に浸りたいと思うものの、工事現場の規制があって河原には下りられそうにない。橋を埼玉県側へと歩いていく。軍配山の方向を見ればその先に、裾野を広げた赤城山の姿。武将たちの目に映った山容も同じだったろうか。

古戦場跡の石碑はJRの線路脇にある

 緒戦優勢だった一益勢だが、数に勝る北条軍に屈する。一益は厩橋城へ退却。その後、もともとの領地である伊勢長島に戻った。織田家の跡継ぎを決める「清須会議」に間に合わず、家臣団の中での立場は揺らいでいく。

 玉村町には一益と敵対し落城した北条方の川井城跡(同町川井・八千矛神社)が、高崎市新町には討ち死にした武将の首を埋葬した首塚がある。本能寺の変で巻き起こった渦が遠く離れたこの地も巻き込んでいた。それを実感する戦跡だ。

腹が減っては戦はできぬ
 関越道高崎玉村スマートインターチェンジからすぐの「道の駅玉村宿」(玉村町上新田)。食堂のおすすめメニューが「軍配山ラーメン」(780円)だ。上州麦豚の自家製あぶりチャーシューがどんとのり、タマネギのシャキシャキとした食感もいい。

軍配山ラーメン