汗をマウンドで拭う姿から「ハンカチ王子」と呼ばれ、国民的ヒーローとなったのは2006年夏の甲子園。元プロ野球選手の斎藤佑樹さん(34)=太田市出身=は昨年秋、11年間の現役生活に別れを告げた。会社設立やテレビ出演など幅広く、忙しく走り回る毎日。その先に思い描く未来図は-。

☆シリーズ「グンマスター」の記事一覧☆

 

野球の楽しさを次の世代へ

 

 

自分の価値を見定めたい

 -引退から半年あまり。気持ちや生活に変化は。

 ずっと野球しかしてこなかったが、違う業界の方と話をする機会が多く、刺激を受けながら日々生活している。半年間、とても新鮮な気持ちで過ごしてきた。今は世の中でのポジションを見定める時期だと思っている。自分て何ができるんだろうと。野球にない発想、ヒントがないかと考えながらいろいろ勉強させてもらっている。その上で、野球という軸は持ち続け、野球につなげたい。

 -昨年、株式会社斎藤佑樹を設立。自分の名前を付け、「野球未来づくり」というコンセプトを掲げる。

 今でも恥ずかしい気持ちだが、今の自分はどのくらいの価値なんだろうと見定めたかった。今までは北海道日本ハムファイターズというチームに守ってもらっていたが、これからは自分一人で歩んでいくという決意を込めた。逆に覚悟が決まった。

 

 -趣味の多様化が進み、野球人口も減っている。

 子どもの数自体が減っている中で、野球人口を増やすことだけを考えるのはナンセンス。子どもの選択肢が増えれば、野球人口が減るのは当たり前。それよりも、既にやっている人たちが野球と気持ち良く向き合えるかが大事だと思う。「野球って楽しいよね」って思えるような環境づくりのお手伝いができたらと考えている。

好きだったから続けられた

 -現役時代はけがとの長い闘いだった。

 辞めたいと思うことはなかったが、もう辞めるべきかなと思ったことはあった。チームに迷惑をかけているんじゃないかって。歯を磨くのも、シャワーで腕を上げるのも痛くて、「朝起きたら治っていないかな」っていつも考えていた。

 夢にも出てきたかな。小さい頃、プロ野球選手はもちろん、メジャーリーグで投げたいと思っていた。肩を痛めていた時に、メジャーリーガーたちを抑えている夢を見て。ボールを投げることすらできない時だったから、幸せだった。起きたら、またいつもの日常が始まるんですけど。

 

 

 でも続けられたのは野球が好きだったから、「ファイターズ」だったから。そして栗山英樹監督がいたから、前向きに野球ができたし、人として勉強させてもらった。けがをしてトレーナーさんと話す機会が多くなって、リハビリの方法や栄養、運動力学のこととか知識が増えた。本当はけがをする前から勉強すべきなんでしょうけど。データを分析しながらバッターを抑えるにはどうすればいいか考えたり。最後の方は野球がすごく楽しいなって思っていた。けがをしたことは自分にとってターニングポイントで、財産になった部分もある。

 -栗山監督と共に歩んだプロ生活とも言える。

 すごく大きな影響を与えてくれた。上に立つって、こういうことなんだなって思った。選手一人一人をずっと見続けて、それぞれに丁寧に言葉をかけてくれる。それがちゃんと「刺さって」いる。みんな、栗山監督だから頑張りたいと思える。指導者として、監督として、人として本当に尊敬している。

 -日本ハムは選手ファーストというイメージがある。

 選手へのリスペクトがある球団。契約更改とか、シビアな部分はもちろんあるが、選手がプレーしやすい環境をつくるということを第一に考えてくれる。経営のことよりも、まずは選手のための環境づくりが私たちの仕事だと、毎年言葉にしてくれる。

  

太田高校に行くものと…

 -地元での高校進学は考えなかったか。

 ずっと考えていた。地元の太田高校に行くもんだと思っていた。でも、夏の中体連の予選を早稲田実業高の和泉実監督が見に来てくれて、受験しないかという話をいただいた。それまで選択肢になかった。そんなことができるんだと考えた瞬間に、すごく世界が広がった。甲子園に行くことだけを考えたら、群馬にもいっぱい強い高校はあったが、早稲田のユニホームを着たいという思いが強かった。

 最初の2カ月は東武鉄道の特急りょうもうで通った。朝は始発で、帰りもほぼ終電。野球はもちろん、勉強も付いていくのに必死で、疲れてさすがに無理だなって思った。親にお願いして学校がある国分寺駅の近くに住ませてもらった。兄と2人で住んでいた。

自信なかった

 -「爽やか」という世間のイメージを崩したくないとか、演じていた部分はあるのか。

 そういうのはあまりなくて。高校時代、納得いかない投球が続くと、態度に出てしまうことも多かった。自分のふがいなさが許せなくて。でも和泉監督に指摘されて感情を抑えられるようになった。早実のユニホームって歴史があって、王貞治さんや荒木大輔さんの活躍で有名になった。そのバイアスはかかっていたと思う。

 -すぐにプロに行けば良かったと思うことはあるか。

 選択肢としてはあったが、中学生の頃から、早稲田のユニホームを着て神宮で投げたいという思いがあった。「すぐに通用したのでは」と言っていただくこともあるが、自分の中では全然自信がなかった。すぐプロに行っても、勝つのはなかなか難しいだろうなって思っていた。

 今は、大学に行ったから良かったことの方が多い。あの4年間はすごく楽しかった。野球も、チームメートと過ごす時間も。それに出身者がたくさんいて、その方たちとのつながりで今も仕事ができている。同級生から仕事の話をもらうこともある。いろいろな縁、絆が生まれた。

 

野球通じて地域貢献を

 -自身の性格は。

 物事を進めていく上で、大事なことは何だろうと考えている。あんまり後ろを振り返らない、「あの時こうだったよね」という会話は好きではない。それよりも夢のある話をあえてするようにしている。いろいろなアイデアをみんなで出し合って、わくわくする方が楽しい。常に前を向いていたい。

 -大学時代、卒論でスポーツによる経済効果について書いた。

 日本ハムや福岡ソフトバンクホークス、横浜DeNAベイスターズなどに触れて、地域に根差した球団による経済や地域の活性化についてまとめた。入団が決まっていないところから書き始めたので、すごい偶然。縁だなと思った。野球を通じた地域貢献をしたいと考えているので、スポーツビジネスは興味のある分野。野球に興味のない人にとっても「野球っていいスポーツだよね」「野球をやっている人ってすてきだよね」って言われる活動をしたい。野球人として世の中に必要とされることを目指したい。

 

 -指導者として球界に戻りたい気持ちは。

 自分にはまだできない。栗山監督を見ていて、あそこまでになるにはどうしたらいいんだろうと思う。ただ、自分の経験やつらかったこと、迷ったこと、考えていたことを後輩に伝えるべきだよと言ってもらうこともある。いつか、そういうこともさせてもらえるよう勉強したい。

野球を始めた原点の太田生品小グラウンド

球場を造れたら

 -思い出の場所や風景、食は。

 野球を始めた原点でもある太田生品小のグラウンド。引退後すぐに行って、両親が手伝いをしてくれたこととか、チームメートと汗を流したこととかいろいろ思い出した。あっという間だったけど、いろいろな人たちに支えられて幸せな野球人生を送ってこられたんだなって。今度は自分が恩返しする番。引退直後だったから感慨深くて、あらためて頑張ろうと再出発を誓った。

 好きだった食べ物は、地元にある弁当店「第一軒」のシューマイ。母が以前働いていたので、よく食べた。今も時々食べることがある。

第一軒のシューマイ

 -県民にメッセージを。

 群馬で生まれ育ったことは僕にとってすごく大きい。いい意味で田舎じゃないですか。だからこそ、のびのびと育ててもらった。群馬への恩返しという意味でも、球場を造ったりして、子どもたちが野球する姿を見られたら幸せですね。

【プロフィル】1988年、太田市生まれ。早稲田実業高3年時、エースとして夏の甲子園で優勝。早稲田大を経て2011年、ドラフト1位で北海道日本ハムファイターズに入団。11年間で通算15勝を挙げた。