「汝に関東の華をとらす」。関ケ原の戦いの功績により、徳川家康が重臣の酒井重忠に厩橋城(現在の前橋城)を与える際に言ったとされる言葉です。家康にそう称されるほど、関東北部では地位の高い城だったと言われています。

 来年のNHK大河ドラマは家康が主人公です。今回はドラマでも語られるであろう関ケ原の戦い、そして徳川家と上州群馬のつながりを紹介します。皆さんが住んでいる場所も関ケ原とつながっているかもしれません。それでは1600年の関ケ原の戦いへ、いざ!

 戦と言えばまず、敵味方が分かる旗が必要です。桐生には2410疋(ひき)の旗絹をたった1日で織り上げて家康に献上した史実があります。1疋は幅36センチ、長さ22メートルですから、ものすごい量だったことが分かります。群馬産ののぼりや旗が東軍の勝利に貢献したと言ってもいいでしょう。

 戦いの火ぶたを切る先陣を務めることは、武将にとっての名誉です。高崎城主の井伊直政は3600人の軍団を率いて参陣し、見事先陣を切りました。関ケ原の戦いで真っ先に戦ったのは当時群馬にいた兵たちだったのです。私は映画などで合戦シーンを見ると、「群馬産の旗だ!」「高崎の兵だ!」と興奮してしまいます。

 戦の後は褒美です。前橋の総社城主で名君と名高い秋元長朝は、西軍についた上杉家を説得して降伏させた功績により、総社の地を与えられました。秋元長朝はその後、大坂夏の陣で淀殿を保護して前橋に連れてきたという伝承があります。以前も紹介しましたが、関ケ原で敗れた石田三成は沼田に落ちのびて正行院の住職になったという伝承があります。

 酒井重忠をはじめ、関ケ原の戦いは上州群馬の歴史とつながっているのです。

 徳川家と上州群馬のつながりを見てみましょう。

 太田市には徳川町があり、徳川発祥の地と言われるゆえんです。北関東の要衝、館林城は徳川三傑の1人である榊原康政が利根川の抑えとして入り、後に五代将軍徳川綱吉を輩出した城でもあります。

 赤城山の徳川埋蔵金伝説を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。そもそも埋蔵金伝説があるのは群馬が徳川家にとって重要な地だったからだと考えます。縁やゆかり、信頼がなければこのような伝説は生まれません。徳川家にとっての重要さがうかがえます。

 幕末には徳川家の血を受け継ぐ松平家が前橋藩主となりました。松平家の馬印は前橋市の市章にもなっています。

 自分の住む場所の歴史を調べると、何げなく見ていたドラマや時代劇がより身近になり、歴史に興味が湧いてきます。そして興味は好きに変わり、楽しみに変わり、群馬への地元愛や誇りが育っていくと考えます。群馬の歴史をぜひ楽しみましょう。

 【略歴】企業で働きながら有志でつくる本格格闘甲冑集団・式で演舞用の甲冑作りを開始。2019年に北群馬甲冑工房を設立した。御城印なども製作。前橋工業高卒。

2022/6/22掲載