今回は本県の和算発展に大きく寄与した小野栄重と、一門の主な和算家たちの業績を紹介する。

 小野栄重は1763年、安中市中野谷の須藤家に生まれた。幼名を捨五郎といい小野文助に拾われ、育てられたという。15、16歳の頃、埼玉・上里町の吉沢恭周に和算を学び始めた。およそ10年後の87年に、師匠の恭周と高崎市八幡八幡宮に算額を奉納した。その後結婚し、一家をなしたが、和算をやりたくて江戸に出て、関流四伝の藤田貞資に入門した。必然的に天文・測量方面にも手を広げた。

 97年、栄重は妙義神社に算額を奉納した。測量面では、1802年に伊能忠敬が高崎に宿泊した際、宿舎を訪ねている。翌年、測量隊の一員となって東海・北陸へ向かった。11年に関流五伝の藤田嘉言から免許を受け、関流六伝を称した。49歳の時だった。

 その後は著述や門弟の育成に努め、広く西北毛に多くの和算家を輩出した。著作に『星測量地録』『弧背真術弁解』などがある。角田親信(?~1818年)は生まれつき目が見えなかったが、2人の絆から01年、安中市松井田町峠の熊野神社に算額を奉納した記録がある。

 原賀度(1789~1860年)は安中市板鼻の真下家に生まれたが、結婚して原姓を名乗り、名前も変えた。上州・武州・江戸の神社仏閣に奉納された当時の貴重な和算資料である『諸家算題額集』という稿本を著した。

 玉村町板井の斎藤宜長(1784~1844年)は『算法円理鑑』などを著わし、子の宜義や市川行英らの優れた算学者を育て、上州の和算を発展させた。中之条町の剣持章行も有名である。著述に『探?(たんさく)算法』『算法開蘊(かいうん)』などがある。章行は主に群馬・埼玉・千葉・茨城各県を旅しながら和算を教えた、いわゆる「遊歴和算家」の一人であり、旅先の千葉県旭市で客死している。

 高崎市下里見町の中曽根慎吾宗?は関流宗統八伝を許された第一級の和算家で、教育者でもある。和算資料一式が県指定重要文化財になっている。前橋市関根町の萩原禎助信芳は明治の日本で最後の和算家と言われ、関流宗統八伝を許された。発刊された和算書や門人らと奉納した算額は飛び抜けて難しく、現代人にも理解困難なものが多い。

 他にも多くの和算家がおり、その門人まで含めると、それこそ赤城山の裾野のごとく、上州一帯に広がっていたのである。

 「和算を知ろう」をテーマに、7回にわたってつづってきた。読者の皆さんに、さまざまな切り口から和算の世界をのぞいていただきたいとの思いだった。いくつかの提言や意見を述べたが、伝統文化を末永く守り、つないでいくため、ご支援をいただきたいと願う。



県和算研究会副会長 中村幸夫 藤岡市岡之郷

 【略歴】県和算研究会、日本数学史学会所属。民間企業を定年退職後、労働安全衛生コンサルタント業務の中村エス・ファイブ事務所設立。藤岡高―群馬大工学部卒。

2021/10/07掲載