はじめまして。桐生市で織物業を営んでいる井清(いのきよ)織物の代表、井上義浩と申します。帯やストールなどをデザインし、製織、販売しています。戦前からこの地で稼働していた織物工場ですが、1953年に工場長であった祖父が独立してから数えると、今年で68年目となります。
2014年にファクトリーブランドのOLN(オルン)の活動をスタート。現在は私と妻、父、それに織り子さん1人、たまに母と縫製の助っ人という超少数精鋭部隊でさまざまな織物アイテムを生み出しています。また2年前には工場の手前に小さなショップもオープンし、消費者の皆さんと直接交流できる形も整いました。
とはいえ、これといった実績のない私がコラムを執筆するなんて百年早いことは自分でも理解しています。それでも今回お受けした理由は二つあります。一つはオルンのことを上毛新聞の読者の皆さんに広く知っていただきたいという考えから。もう一つは私の経験が誰かの役に立つのでは、という思いからです。 想定している「誰か」というのは、かつての自分のように仕事で悩み、どうにか今の状況を打破できないかと日々戦っているような人です。私も業界問わずさまざまな立場の方の考えや行動をヒントにしながらやってきました。
1年を通して、どん底を長く味わいながらもなんとか現在の形(ささやかですが)にまでたどり着いた実体験をお伝えしたいと考えています。その中で一つでも誰かの何かしらの気付きや勇気になればと願っています。
中学、高校と学校生活を通して地元が嫌いになった私は大学進学とともに上京し、紆余(うよ)曲折の末、東京でテレビの音楽番組のディレクターをしていました。目指していた仕事ではありませんでしたが、どうもその業界との相性が良かったらしく、とても充実した日々を送っていました。
ようやくクライアントから指名で仕事が来るようになったころ、実家の厳しい状況を知り、それまで一切考えたことのなかったUターンを決意しました。30歳にして織物の仕事を一から覚えることとなったのです。結婚前提でお付き合いしていた彼女には「数年で立て直せる見通しを立てて桐生に呼ぶから」と約束し、遠距離での交際になりました。
東京での経験から自分のことを「できる男」だと思い込んでいた私を待っていたのは、想像をはるかに超える弊社の状況の厳しさと伝統産業特有の難しさでした。ブラックと呼ばれるテレビ業界でもまれたおかげで、アイデアと根性には自信がありましたし、それなりの覚悟もしていました。しかし、「私の自信」は所属した会社や環境、そこに集まる人間関係によるものが大きく、自分の力ではなかったと気付いたのです。
OLN代表、井清織物代表 井上義浩(桐生市境野町)
【略歴】(いのうえ・よしひろ) 井清織物4代目。大学進学で上京後、テレビ番組制作などを経て30歳で帰郷し、同社入社。2014年、妻と織物の生活雑貨ブランド「OLN」を立ち上げ。
2020/12/25掲載