どうやら私たちは、口では民主主義を大事と言いながら、民主主義をあまり信用していないようだ。先の検察官定年延長問題にみられるように、政治が裁量的に決定することを嫌うことが多い。本来は、国民が選んだ代表によってコントロールされていない方が問題なはずだ。

 裁判についても似た傾向がみられる。平等や人権に関する問題で日本の裁判所は消極的で保守的であるとの批判が多い。だが、国民代表である議員の決定が、国民のコントロールがあまり及ばない裁判所によって書き換えられるのは民主主義に反する。反してでも正すべきことがあるから最高裁判所は「憲法の番人」であり、反するがゆえに番人は消極的である。

 もし社会を変化させる強い判決を望むのであれば、裁判所は選挙や選挙で選ばれた代表を通じてより強くコントロールされなくてはならない。裁判官人事を政治化することになるが、こちらを望む声はほとんどない。

 もちろん、民主主義を選挙や多数決とイコールで考えることは、民主主義を矮小(わいしょう)化している。民主主義は自由や平等をはじめさまざまな理念とともにある。しかし、民主主義を通して実現されるべき理念を重視するあまり、私たちが政治を動かすことを軽視してよいことにもならない。

 とはいえ、選挙で選んだ代表を信用せず、政治の裁量を嫌い、権力はメディアが映し出す世論次第という政治のあり方も、実はそれなりに辻褄(つじつま)があっている。権力を用いず社会の自律性によって問題を解決できることは望ましいし、平生、社会の協調で対応できているのであればバランスは取れている。しかし、強い意思決定が求められるときに限界を露呈しやすく、なにより、流動的で実体のない世論にゆだねるのは危険で無責任でもある。

 民主主義は私たちがよりよい政治をつくりだすための手段であるはずだ。確かに扱い方を間違えると弊害ばかりが目立つことになるが、第2次世界大戦期の英首相、チャーチルが述べたように、これよりマシな政治のやり方は誰も知らない。そう腹をくくって選挙に臨もう。政治家がダメなのはわれわれの選び方がダメだから、ダメなわれわれは信用できないから選挙も政治も信用しない。筋は通っているが悲しい理屈である。

 来年9月末に自民党総裁としての安倍晋三氏の任期は終わり、10月には衆議院が任期満了を迎える。次の首相を選ぶ日は近い。ところが、18歳選挙権導入時の熱気は薄れ、3回目の国政選挙となった昨年の参議院選挙では、18歳と、忘れられがちだが18歳と同じく選挙権を得た19歳の投票率は大きく落ち込んでいる。悲しい理屈に屈せず、若者の目を政治に向ける努力が求められている(執筆は安倍首相の辞任表明前)。



関東学園大教授 並河仁 太田市浜町

【略歴】2003年に関東学園大講師、15年から現職。専門は政治学。京都市出身。京都大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。

2020/9/6掲載