1960年ごろの藤沢石材店。店先に御影石が並ぶ
富岡製糸場の行啓記念碑(富岡市提供)
藤沢石材店の歴史を振り返る藤沢潤一郎社長
内村鑑三が清七郎に宛てた手紙。墓石に彫る家紋について相談していたとみられる
旧中島家住宅の車寄せ(太田市教委提供)

 墓石や建物を支える礎石、庭の敷石など生活のさまざまな場面で使われてきた石材。江戸時代後期の1845(弘化2)年に創業した藤沢石材店(高崎市あら町)は、長い歴史の中で培った技術で数多くの墓石を建立するとともに、著名な記念碑や建築物も手がけてきた。

高遠石工
 初代の藤沢徳兵衛は、「高遠石工」と呼ばれる石材加工の職人集団を輩出した現在の長野県伊那市に生まれた。江戸期にこの地を治めた高遠藩は、税収を増やすために出稼ぎを奨励し、職人たちは「旅稼ぎ石工」として全国に散って活躍した。

 農家出身の徳兵衛も石工の技術を身に付けた後に群馬や埼玉で腕をふるい、その後高崎に店を開いたようだ。

 創業地は現店舗の近くだったとみられる。周辺は旧中山道が通り、延養寺(同市あら町)や大信寺(同市通町)、安国寺(同)といった寺院が集積。檀家(だんか)制度の成立や民間信仰の隆盛を背景に、墓石や石仏を造立する需要が高まっていった。

 当時は、同市倉渕地区で産出された「神山石」などの石材を使った。原石を購入し、牛や荷車などを使って店まで運んでいたようだ。7代目の藤沢潤一郎社長(68)は「倉渕と高崎とでは標高差があり、帰りは下り坂になるため運ぶのにちょうど良かったのではないか」と想像する。

 徳兵衛の後は勝之助、清七郎と嫡子が事業を継いでいった。だが1909(明治42)年、4代目の徳三が30代で早世し、同年に3代目の清七郎も他界する。当時9歳だった5代目の梢(後に清七郎に改名)につなぐ役割を果たしたのが、徳三の妻、やすだった。

 やすは読み書きができ、頼りがいのある性格で職人を束ねた。やすの働きぶりを物語る逸話として、日々の営業活動のために草履がすぐに傷んでしまい、毎日新品に履き替えていたと伝わる。潤一郎さんの妻、秋子さん(61)は「いまだに男の商売と言われる業界。当時はもっと大変だったはず」と苦労をしのぶ。

営業のいろは
 5代目清七郎の頃には、多くの著名人からも仕事を受けた。思想家の内村鑑三が光明寺(高崎市若松町)に建てた内村家の墓や、「飛行機王」と称される中島知久平が建てた旧中島家住宅(太田市押切町)の車寄せの敷石、沓石(くついし)を手がけた。

 世界文化遺産「富岡製糸場」の正門を入ってすぐの所にそびえる巨大な石碑も、清七郎の手によるものだ。皇太后と皇后が訪問したことを伝える記念碑で、43(昭和18)年に建てられた。

 県内に1台しかなかったという大型トラックを確保し、まだ少なかったコンクリート製の橋を選んで鏑川を渡るなど、当時ならではの苦労話が伝わる。

 高校を卒業後に運転手として祖父に同行し、営業のいろはをたたき込まれたという潤一郎さんは「八丈島に顧客を持つなど、とにかく顔が広かった。お客さんとの付き合い方を教えてもらった」と祖父との思い出を懐かしむ。

【企業データ】
 ▽本社 高崎市あら町
 ▽会社設立 1961年
 ▽役員・従業員 3人
 ▽事業内容 墓石工事や建築材料販売

1845(弘化2)年 現在の長野県伊那市出身の藤沢徳兵衛が創業
1916(大正5)年 多胡碑のいわれを刻んだ多胡碑記を造立
 30(昭和5)年 旧中島家住宅の車寄せを手がける
 43年 富岡製糸場の行啓記念碑を造立
 75年 妙義神社のこま犬を制作
 90年 6代目の宏さんが社長就任
2003年 7代目の潤一郎さんが社長就任
 18年 潤一郎さんの長男直哉さんが入社

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