今春、梅の花が香る奥多野を訪ねた。3月1日付「記者め~る」に触発され、昨年の台風19号被災地の真実を自分の目と耳と心で確かめた。

 上野村取材担当の記者は、台風19号避難時に同村では住民の約2割が避難所を利用し、死傷者を1人も出さなかった点に着目。「一緒に逃げよう」と言い合える住民相互の濃い「関係性が防災力の一つかもしれない」と結んだ。2016年、新潟県の糸魚川大火でも隣近所の声の掛け合いによる迅速避難が奏功し、犠牲者ゼロだった。

 湯の沢トンネルを抜け、路肩が崩れた現場を尻目にまず向かったのは「野栗」集落。1907年に山津波で41人が犠牲となった現場だ。野栗沢川左岸の土石流扇状地には宅地や段々畑の跡地の盛土部や石垣が露出し、災害の凄惨(せいさん)さを物語っていた。対岸の住民から当地が元々同川の右岸側だったと教わり、地形変貌の激しさにあぜんとした。

 犠牲者を弔う供養碑には「普濟」(あまねくすくう)と刻まれ、被災した8月25日を中心に毎年碑前に地元の神主と住職を交互に招いて慰霊祭を行ってきたそうだ。

 さて、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際、普代水門と太田名部防潮堤が岩手県の普代村住民を津波被害から守り抜き、世界から称賛された。双方とも和村幸得元村長が建設を進めたものだ。計画当初は村内で賛否が分かれたが、24歳で昭和三陸大津波(1933年)を経験した和村元村長は「2度あったことは3度あってはならない」と譲らず、それぞれ明治三陸大津波(1896年)で到達した15.2メートル以上という高さにもこだわった。

 もう一つ見落としてはならない事実がある。それは大津波襲来時における普代村住民の迅速避難だ。住民は堅固な水門と防潮堤に慢心せず、とにかく懸命に逃げた。その背景には、昭和の大津波に村が襲われた3月3日に合わせ、毎年津波記念塔の前で行われてきた慰霊祭があった。なお、記念塔の碑文には、津波が来る前に近くの高所への避難を促すなど、防災の教訓が刻まれている。

 上野村では台風19号接近時、消防団員が素早く住民に避難を呼び掛け、臨時避難所とされた地元の温泉宿泊施設などに誘導した。避難をためらう高齢者は皆無に近く、若者たちの指示に従ったそうだ。

 そうした世代間の良好な関係性は見逃せない。それとともに、普代村と同様、慰霊祭を通して営々と語り継がれてきた災害の記憶が住民の危機意識をつなぎ留め、地域防災に役立っていた。

 見守る会が保全・顕彰を目指すデ・レイケ堰堤(えんてい)は、榛名山麓における災害リスクを示す指標でもある。上野村の供養碑に準じ、土石流災害の記憶を語り継ぐ防災遺産として積極的に活用していきたい。



榛名山麓のデ・レイケ堰堤を見守る会代表 大林和彦 榛東村新井

 【略歴】高校教諭で現在は前橋清陵に勤務。2016年に見守る会を立ち上げ。高校通信制「地理B学習書」(NHK出版)を執筆。群馬大教育学部(地理学専攻)卒。

2020/4/29掲載