竹久夢二は1931(昭和6)年5月、長年の夢だった外遊に出ます。

 出発を前にした4月、「榛名山産業美術学校建設、夢二画伯外遊送別舞踊と音楽の会」が前橋、高崎、富岡、桐生各市などで開催されました。群馬に初めてできた竹久夢二後援会が中心となって主催し、上毛新聞社などが後援しました。

 音楽の会には九貴三姉妹や淡谷のり子、和田肇らが出演。夢二は美術学校建設について講演し、榛名の風光の中で草木染や粘土細工、織物、手すき和紙など地域に根差した美術品をつくり、観光と郷土美術の振興に役立てるとの考えを述べました。

 後援会の趣意書は、夢二を〈わが美術界にあって過去三十年間独自の地歩を招き、夢二式女性を創造し夢二的感覚を詩に小唄に表現し、一世の青年男女を風靡した〉と絶賛しています。

 その夢二が〈われらが郷土榛名湖の風光を愛し〉たこと、欧米諸国を視察して民族美術や郷土美術を研究した後、〈余生をわれらの湖畔で親しく郷土の産業美術振興の為送ろうと決心された〉ことなどを挙げて歓迎。〈われらは夢二を迎えるに先だってしばらく彼を海外に送りませう。そして彼のお土産を待ちませう〉と結びます。

 「日本の夢二」が「われら群馬の夢二」になるという歓喜に満ちた様子が伝わってきます。

 夢二は外遊の4日前まで榛名のアトリエにいて、外遊中は誰が訪ねてもいいように芳名帳を残し置き、5月7日に横浜から出帆しました。

 榛名のことは頭から離れることはなかったのでしょう。米国滞在中、小ぶりな枕屏風(びょうぶ)仕立てに制作した「青山河(せいさんが)」には、青々とした柔らかな榛名の山並みを背景に、裸婦が気持ち良さそうに横たわる姿が油彩で描かれています。裏面には「山は歩いてこない やがて私は帰るだろう 榛名山に寄す」という一文が添えられています。

 「青山河」は滞米中に世話になったジャーナリスト、坂井米夫氏に贈ったものでした。しかし、数奇な道をたどりながら夢二の帰りたかった榛名山麓にある当館に着き、現在は館の宝として常設展示されています。

 夢二の出身は岡山県です。縁もゆかりもなかった本県が、夢二にとっては第二の故郷のように深くこよなく愛した場所となりました。

 現代に生きる私たちは、見果てぬ夢となってしまった「榛名山美術研究所」構想を大切に引き継ぎ、微力ではありますが観光と郷土美術の振興に役立てるよう、努めていきたいと考えています。

 「青山河」の制作に当たっては、夢二の最愛の女性、彦乃の存在を重ねることができるように感じます。このことは次回、代表作「黒船屋」の制作秘話を寄稿する際にお話します。

 【略歴】会社員を3年経験して1996年から竹久夢二伊香保記念館勤務。2016年から現職。17年に京都芸術大に編入。今春、芸術学士と学芸員の資格を取得し、卒業。

2022/7/21掲載