崖を利用した天然の要害 堀はい上がり、いざ進め!

 北へ向かえば沼田、その先は越後。西へ進めば吾妻を経て信濃へ。街道の分岐点に位置するのが白井城(渋川市白井)だ。吾妻川と利根川が合流する崖の上の要害は、武田方の真田や、上杉、北条が激しい争奪戦を繰り広げた歴戦の城。今はコンニャク畑が広がるのどかな一帯・・・のはずが、深い堀の底で戦場にタイムトリップ!?

野面積みの石垣

悪夢再び?

 「道の駅こもち」を起点に、白井宿をのんびり歩きながら城を目指した。道の駅は城の北東に位置する。南へ進み、「白井城址」の案内碑に沿って西へ折れる。突き当たりの小さな社の脇が城の帯(おび)曲輪だ。木立の中の細長い曲輪は整備されていて歩きやすい。ただ、最近の雨のせいだろうか、いくらか湿り気がある。ジメっとした地面に、松井田城攻めの際、敵の大軍(ヤマビル)に襲われた恐怖がフラッシュバックする。いや、ここにはいないはず、大丈夫。悪夢を振り払って突き進む。

帯曲輪

水堀で矢がバシバシ

 右手に深い堀が見えてきた。三日月堀だ。本丸は近いぞ。堀の底へ一気に駆け下り、勢いよく歩を進める。「あれ?」。思わず声が出た。途中から水がたまっているじゃないか! これでは先に進めない。史料によれば、この堀は水堀だったという。なるほど、なるほど。こういう状態だったのね。守りのための水堀だもの、歩けるはずがないわけだ。往時がよみがえったかのような堀の様子に納得した。おっと、感心している場合ではない。戦の最中なら、足止めをくっている間にバシバシ矢で射られる。斜面をよじ登り、なんとか堀からはい上がった。

帯曲輪から三日月堀に下りる
堀には水が

西へにらみ

 はい出た場所は二の丸で、堀を土橋で渡ると本丸だ。野面(のづら)積みの石垣が残る枡形虎口(ますがたこぐち)に心ときめく。河原の石を加工せずに使っていて、中には直径1メートルほどのものもある。太田道灌の手による、とも伝わる。広々とした本丸は東から南に高さ3メートルほどの土塁が巡らされている。南端には物見やぐら、笹曲輪があった。ぐるりと一回りして石垣に戻ってひと息つく。強烈な日差しも木陰に入るといくぶん和らぎ、風が心地よい。緑が揺れるのどかな場所がかつて戦場だったとは。まさに「夏草や兵どもが夢の跡」。

土塁を巡らせた本丸

 本丸を出て、二の丸、三の丸へ。コンニャクなどの畑が広がる一帯で、榛名の山容が美しい。城の縄張を確かめようと、さらに北へ向かう。住宅街の中の十字路に古い道しるべがあった。「ぬまた」「ゑちご あがつま」の文字が読める。西へ曲がり、しばらく行った先に寺(玄棟院)がある。この近くにも物見台があり、西へにらみをきかせていたようだ。

住宅街にある古い道しるべ

支城いくつも

 城は関東管領山内上杉氏の家宰・長尾景仲が築いたとされる。景仲の子、景信が死去した後、家宰職の後継に絡んで乱が勃発。その後、武田氏配下の真田幸隆の攻略、小田原北条氏の支配と、多くの戦乱の舞台となった。1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際は、松井田城、厩橋城を落とした北国勢が攻めかかった。前田利家の軍勢が北方から、上杉景勝軍が南方から攻め寄せた。前田勢は北曲輪から三の丸に入り、火を放って開城を迫り、ついに城は落ちた。

 徳川家康が関東に入ると本多氏が城主に。枡形虎口の石垣も本多氏の時代に築かれたようだ。

石垣が築かれた枡形門

 およそ1時間半、たっぷりと城巡りを満喫した。周辺には支城がいくつもあって「白井城団」を形成していたという。攻めがいがありそうだ。(O)

復元図はあれこれ妄想するのに役立つ

【腹が減っては戦はできぬ】
 道の駅こもちの食事処は、地元食材を使ったメニューがそろう。一番人気はかつ丼(980円)だ。群馬県産豚のかつは厚く、ボリューム満点。隣接の物産館では白井城の「御城印」を販売している。

 
城巡りが趣味の夫のお供をするうちに、あれよあれよと沼にはまってしまった40代記者。天守をいただいた近世城郭もいいけれど、〝好物〟は戦国の山城。歴史に残る合戦の場所に行って陣形や戦の展開を妄想するのも好き。そんな偏愛を満たしてくれる場所を求め、県内を北へ南へ、東へ西へ。いざ出陣!