思い込み。

 コンサートや演奏会、スポーツイベントなどで見事な演技に観客が立ち上がって拍手を送ることを「スタンディングオベーション」と言います。恥ずかしながら私はこの言葉を知らず、長い間「スタンディングオペレーション」と思い込んでいました。

 ある日娘が羽生結弦選手のアイスショーを見に行きました。娘「すごい演技だった。最後には観客がほぼ全員でスタンディングオベーションだった」。私「観客が総立ちで拍手を送ったんだろう。それはスタンディングオペレーションと言うんだよ」。娘「えー。スタンディングオベーションて言うんだよ。知らないの?」

 仮にも米国留学経験のある私が知らないのではメンツが立ちません。私「オペレーションの方が概念が広く、オベーションを含む言葉なんだよ」と訳の分からない説明をしました。すると娘は自分のiPhone(アイフォーン)をさっと取り出すと、〈standing ovation〉を私に見せました。〈観客が立ち上がって拍手を送ること〉。確かにそのようである。私「エーまあそうとも言うんだな」。今回は娘に指摘されて間違っていたことが判明しましたが、思い込みは恐ろしいものです。

 もの忘れ。

 出張先の病院での出来事です。診療開始前にコーヒーが飲みたくなり、自動販売機に向かいました。レギュラー60円、ミル挽(ひ)き70円、プレミア・ミル挽き90円と表示されていました。奮発して90円のコーヒーと決めました。小銭がなく、千円札を自動販売機に入れました。出来上がると扉が開く仕掛けです。コーヒーが出来上がる前にカシャカシャとつり銭が落ちてくる音が鳴り終わった後、つり銭口に手を伸ばしました。

 確認すると500円硬貨が混じっていました。“500円硬貨のみで貯金をすると30万円たまる”貯金箱が自宅にあり、息子が時々500円硬貨が手に入ると喜々として貯金していたことを思い出しました。「そうだ、帰って息子に500円硬貨を渡してあげよう。きっと喜ぶぞ!」。つり銭とともに自動販売機を後にしました。

 控室に戻って椅子に腰かけ、さっき何しに行ったんだっけと自問したところ、コーヒーを買いに行ったことを思い出しました。すぐさま踵(きびす)を返すと、自動販売機の扉が開いたまま、中には湯気のたったコーヒーが…。周りに誰もいないことを確認し、何事もなかったかのようにコーヒーをつかみ控室に戻りました。

 上記エピソードを家族と複数の友人に話しましたが、皆以下のような回答でした。「つり銭を取り忘れることはあるけど、コーヒーを買いに行ってコーヒーを忘れることはないよな…」。かような「思い込み」や「もの忘れ」を「老人力」がついてきたと自分では納得しています。



埼玉医大総合診療内科教授 橋本正良 埼玉県毛呂山町

 【略歴】元医官。米国での総合診療医研修やアフリカでのPKO活動に従事。2等陸佐で退官し、神戸大大学院教授を経て現職。粕川中―前橋高―防衛医大卒。

2020/06/23掲載