政治家は選挙戦の結果により、立場ががらりと変わる。落選を経験し、そこから返り咲く人もいる。今春の群馬県議選では、「元衆院議員から県議へ転身」した宮崎岳志氏、「県議、市長を経て再び県議」を目指した須藤和臣氏が当選した。失意の浪人時代から捲土重来(けんどちょうらい)、新たな思いを抱き県議会の場で何を目指すのか。話を聞いた。

 群馬県議から館林市長を経て、もう一度県議へ。不屈の精神で返り咲きを果たした須藤和臣さん(55)は市長落選後、350人の支持者を訪ね歩いて、自らが進むべき道を切り開いた。社会が抱えるあらゆるリスクへの想定が大切と強調、議員と首長でそれぞれ経験したことを県政の場に生かしたいとする。

今春の県議選で返り咲き、4選を果たした須藤さん

悔しさをばねに

ー先日の群馬県議選を振り返ってください。1万1855票を獲得し、館林市区トップ当選でした。

 告示前日に一転して選挙戦となり、われわれも混乱した状況でのスタートになりました。後援会の皆さんが一糸乱れず、一致結束して、選挙戦に臨んでいただいた。本当に感謝してもしきれない。

 結束したのは、前回の2021年館林市長選で負けたという悔しさを共有していたからだと思います。個人演説も33カ所で開き、1000人以上の有権者が会場に来た。実際に選挙をやると、無投票とは異なり、政策をしっかりと説明して、共感をいただけると。選挙戦になったのはむしろよかったかなと思っています。得票は有効投票の55%に当たります。市民の皆さんからもう一度信任をいただいたと捉えています。

―2番手当選の松本隆志さんは8773票で、およそ3000票差。結構開いたという印象です。トップ当選については、どう受け止めていますか。

 こちらの後援会はトップ当選という目標を設定していました。

 私の1回目の選挙、07年県議選は無投票でした。2回目の11年県議選は選挙になりましたが、その時は(松本隆志さんの)父上の松本耕司さん、あと茂木直久さんの3人で。それで私の得票が1万1453票、これもトップだった。松本さんが9662票だったんです。今回はその時の構図と似ていて、ある程度票が増え、差が開いたということで、勝利したという感触はあったと思います。これまで県議選はその1回しか経験していませんでした。

3カ月の「ヒアリング行脚」

―市長選で敗れた後、県議選への挑戦を決めたきっかけを教えてください。

 選挙に出馬するのは、有権者から望まれていることが前提になるわけですよね。ですから、私は後援会の皆さんを中心に、350人の方から、3カ月かけてヒアリングを行ったんです。私自身だけではなくて担当者に同行してもらい、必ず客観的に聞きました。

 その結果、引退を勧める人はゼロでした。通常、「首長を経験すると引退」というケースが多々あるんですけれども、私の場合はなかった。県議選に出た方がいいと勧める方が8割、市長選が1割、その他が1割という結果でした。「空白を開けない方が良い」という意見は共通していました。私自身も、社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を感じ、今は戦後最大の危機的状況であると認識しており、早く政治の現場に戻るべきであると考えていました。

 後援会の皆さんと考えが一致し、それで、昨年4月に総会を開いて、県議選への出馬について提案していただき、全会一致で県議選を目指そうと決まりました。その後は悩むことなく、選挙の準備をしてきました。

―感じている社会の脆弱性、危機的状況とはどんなことでしょうか。自然災害への備えですか。

 自然災害だけではなく、いくつかあります。

 一つは少子高齢化です。人口減少と高齢化がピークを迎える「2040年問題」が言われる中で、これを補うためのAI化とかデジタル化が必要になる。これを克服するのはとても大変なことです。生産年齢人口はピーク時のほぼ半数に減少してしまう。社会的な脆弱性と言えます。

 二つ目は感染症。新型コロナもそうですが、これで終わったわけではないとみています。ここしばらくの期間で、エイズウイルスに始まって、重症急性呼吸器症候群(SARS、サーズ)、中東呼吸器症候群(MERS、マーズ)、エボラ出血熱、新型インフルエンザと。それで今回の新型コロナです。間隔が非常に早くなってきている。「新しい感染症はまた出てくる」と。新興感染症に対する社会的な脆弱性がある。コロナ後の混乱で明らかになりましたから。

 次は食料の問題です。冷戦終結後、世界はグローバル化し、資本の移動もどんどん行われた。経済も市場原理主義的な考えが蔓延(まんえん)して。大きな資本を持った企業が世界各国の小さな資本の企業を買収するケースが増えてきたわけです。種子や種苗の会社の世界トップテンはこの20年でほとんど消えたと。みんなバイオケミカルメーカーの買収とかで。日本だって、主要3社の株主構成を見れば、外資が入ってきていると言わざるを得ない。種というものが外資に取られてしまったら、これはもう国民の食料安全保障の問題にも至ると。こういう視点での隠れた脆弱性もあるわけです。

 四つ目に災害への脆弱性です。以前から、東日本大震災レベルの災害は起こると言われてきました。首都直下地震、南海トラフ地震、富士山の噴火も含めて。過去のパターン、歴史的なエビデンス(証拠)を見れば、自然災害があるというのは以前から言われていることです。 

 最後に、今回の県議選で特に強調したのは外交の有事です。ウクライナで起こっていることは決して対岸の火事ではなく、アジアでも十分起こりうる。日本は防衛費を5年で1.6倍に増やすと。もちろん防衛は国の専権事項です。だけど、もし台湾有事が起こった時、地方はリスク管理をできているのかと。群馬のような地方で、住民の命と健康と暮らしはどういうリスクにさらされるのか。これは社会的なリスク、脆弱性なんですね。

 こうした、今まで当たり前と思われていたことが、案外危ないんじゃないかと。だから、早く政治の現場に戻る必要があるというのが私の思いでした。

妻が看護師に復帰

―市長選落選の後、どんな時間を過ごしたのでしょうか。落胆はありませんでしたか。

「充電期間をいただいた」と浪人時代を振り返る須藤さん

 市長選後の2カ月はお世話になった方々へのあいさつ回りでした。支援者の家を伺うと、「もう一度頑張れ」と声を掛けてくれる人が多くて。訪問のたびに勇気と元気をもらいました。

 その後は充電期間をいただいた。健康面にだいぶ気を使いながら。過去の館林市長の先輩方も体を壊している。市長の仕事は心身ともに大変な職場ですから。その分、健康に気を使いながら、充電と勉強の期間としました。大学生のようとは言わないけど、もう一度、勉強をしっかりと。

 市長時代は365日、市政や市民のことを考えているわけです。今回は、その時はできなかったことで、世界情勢とかの情報を収集して分析することにゆっくり時間を割いた。頭の中をリセットすることができました。

―ご家族の支えはありましたか。

 妻は看護師の資格持っているんですが、この間、もう一度、看護の現場に戻って働いてくれました。昨年末まで勤めて、その後は選挙の準備の手伝いを。子どもは4人いて、大学生の子がアルバイトで収入を得たりとか。家族に支えてもらった面もあり、ありがたいと。

―収入面の不安はありませんでしたか。

 お金と言っても、特別にすごくかかるわけではないです。現職の時はお呼ばれとかがあり、その都度、経費はかかります。だけど現職でなくなり、それとコロナ禍ですから。ほとんどかからないですよ。もっぱらポスター作って、設置する。基本的には支援者がボランティアでやっているんです。お金のかからない選挙スタイルを当初から維持して。我々の陣営の宝です。

 うちは「応援する会」がある。1人1口年間1万円の寄付を募り、それが80人くらいいて、年間で100万円くらいの寄付が集まります。落選中もその方々が継続してくれました。事務所の運営費である家賃、電話代、通信代、コピー代、電気代。そこを維持することができました。

政治家の「リスク管理」は

―県議3期、館林市長1期を経験し、経済的な蓄えはあったのでしょうか。

 常に当選するとは限らないのが政治の世界ですから。落選したとしても、継続してやることが大事です。一度落選して辞めてしまう方もいる。しかし、政治家として当然、当落はあるわけですから、継続できるように備えていくと。サラリーマンもそうだし、経営者もそう。どんなことがあるか分からないから。多少なりともリスクマネージメントは必要ですよね。

ー気持ちの切り替えには精神的なタフさが求められる気がします。

 私は谷津義男先生の秘書を12年3カ月務めました。秘書時代はほとんど休みなく働いていました。選挙前の6カ月間、一度も休みがないなんてこともありましたから。その後、すぐ県議選に出ることになった。県議を10年間務めて。そこに(現職の館林市長だった)安楽岡(一雄)さんの逝去で、すぐ市長選ですから。ある意味、26年間ずっと走り続けてきた状況でした。ここで2年間、心身ともにリセットできて良かったなと。

 地域を歩いて、市民に向き合い、暮らしの様子とか、地域の問題点、魅力とか、再認識することも多かった。無駄ではなく、価値のある時間だったなと思います。

情報分析で見えるもの

―勉強は大学で学び直したということですか。

 そうではなく、本を読んだり、オンライン勉強会に参加したりです。この期間はコロナ禍でしたから。

 私は地政学が好きなんです。世界の地理とか、近・現代史にとても関心があります。今現在、ロンドンは何を考えているのか。モスクワは、北京は、ワシントンは、中東は、って。メディアからインフォメーションは流れてくるわけですが、この国に足りないのはインテリジェンス(情報の収集・分析)という考え方です。さまざまな一次情報をどう分析するか。専門家の意見や考えを総合的に、バランスよく、多方面から収集して、自分の中で分析していくということです。

 市長が市政を運営する時もそうだけど、全て何らかの計画はあると。臨機応変にやるものもありますが、総合的には流れというか、計画がある。世界のリーダーたちも基本的には計画に沿って進めるわけですよ。そのプランが何なのか、よく情報収集しなくちゃならない。正式には発表されませんから。

 歴史から学ぶこともある。どのような歴史をたどってきたのかを読み解くと、先の流れを捉えられる。危機管理士という資格を取得しました。社会のリスク、脆弱性を評価する力というのはとても大事なことで、リスク管理をして、人の命と健康と暮らしを守らなければならない。

 市長時代に国土強靭化計画を作ったわけですが、これは自然災害だけではないんです。あらゆるリスクを想定して、それに対して脆弱性を評価して、前もってリスク管理をしておくと。こんな危機が起こると想定し、復興の道筋も考えておくと。

 山本一太知事も本当はもっと前向きな、群馬を発展させる公約を掲げていたと思うんです。ただ、向き合ってきたのは豚熱(CSF)、鳥インフルエンザ、台風、そしてコロナ。山本県政は危機対応型の4年間だったと見ています。もちろん、デジタルの面では目標を定めて一生懸命にやっている。ただ、私は今後の4年間、危機的な状況が日本の社会を取り巻くと分析しています。それを想定しておいて、もし危機が訪れてもちゃんと立ち上がっていかなくてはならない。

―館林市長時代の仕事で印象に残っているのはどんなことですか。

 最初の2年間は前市長時代から継続していた課題の解決に費やしました。後半の2年間で、日本遺産「里沼」の認定、館林厚生病院の医師確保に伴う黒字化実現、市の国土強靭化計画の策定に取り組みました。

 残念に思うのは「ウォーカブルなまちづくり計画」の中断です。市役所の係長クラスで特命チームを作って、歩きやすいまちを多方面から考えた。移住定住拠点の設置とか、居心地のいい公共空間とか、子育てスクエアを作るとか。チャレンジショップ、空き家対策も進めて、職員の意識がとても高まっていたんです。選挙戦の公約に掲げていましたが、選挙に負けてしまって。残念で、申し訳なかったなと。

情報戦に苦杯

―市長選の敗因について、どう分析しますか。

県議選で使われた須藤さんのビラ。「起動!」の文字が印象的だ

 当時はミニ統一地方選でした。コロナ禍で、全国的にも現職の落選が続いていて。半分ぐらい負けたんじゃないかなと思っています。この周辺でも栃木の小山、佐野、足利と現職市長が負けたわけです。

 選挙の場合、全国どこも似ているかもしれないけど、権力闘争の一面があるんですね。いくら良好な政治を行っていたとしても、脆弱な部分があれば一気に畳みかけられる。21年の市長選は情報戦とか、組織戦で敗れたと分析しています。これまでの館林の選挙で、情報戦はあまり駆使されてこなかったが、やっぱり巧みな情報戦があったと。

―県議として、どんな政治課題に取り組みたいですか。

 谷津先生の秘書時代、農林大臣秘書官も経験しました。先生は農政分野で活躍した代議士で、私も日本の食料事情の改革には思いがあります。健康増進とか、食料安全保障の問題は社会的な影響が大きく、そうした仕事に取り組みたいと思っています。

 例えば、野菜の種の生産です。野菜は国内生産が80%を占めます。しかし、種ベースで考えると、種の国内生産は10%しかない。そうすると、純国産の野菜って8%しかないんです。もし台湾有事が起これば、日本に野菜の種が入ってこなくなる恐れが出てくる。

 本来、野菜は固定種、在来種を日本では使っていたんですよ。固定種、在来種であれば、また種を取って植えればいいと。だけど、それがF1種という1世代型にどんどん置き換えられた。専業農家の方はもうF1ばかりです。固定種、在来種を探すのは難しい状況。海外に生産委託している状況で、それが来なくなるリスクがあります。

 「米があるから大丈夫」っていう人がいるけど、われわれ国民は糖尿病予備軍の状態になっています。「米国から小麦が来る」と言っても、米と小麦食べたら糖質過多で、健康状態がむしろ悪くなりますよ(笑)。食料自給率を上げることは大事だけど、カロリーベースだけでなく、栄養素ベースで考えなければいけません。日本社会の食料事情を改革し、構造を変えていく必要があります。

選挙のしこりは?

―県議として、県と館林をつなぐ役割を担うと思います。市長選、県議選のしこりはあるのでしょうか。

 ん-、松本隆志さんとは、私が市長時代に彼は市議で、若い頃から知っています。父上の秘書をやっていて。私の市政では、選挙に勝ったから相手方を排除するとか、そういう考えはなく、あくまでも公平性を重んじてやってきました。市民、県民の皆さんのために働くということだと思います。

 市長選で戦った多田(善洋)市長だって、自民党の館林支部長として、私を県議選の公認候補に推薦してくれたんですから(笑)。県議選に出ることを決めた昨年4月にごあいさつに行き、当選後も、市長室に伺いました。

 今回の県議選は、企業とか団体の支援ではない部分が大きいと感じています。本来、そういう形だと思うんですよ。市民の皆さんの代表として県政に行くと。

再び市長選は?

―県議に当選したばかりですが、「2年後の市長選はどうするのか」と気をもむ、せっかちな方もいます。どう答えますか。

 それはちょっとせっかちで、取り合わないです。後援会の皆さんと「県議選で行く」と決めて。社会的なリスクを啓発することが県議としての仕事だと思っています。館林だけではなく、より広いフィールドで見渡すと。国会議員の方とのつながりだって太くできるし。ましてや県議4期目、中堅で力も発揮できる。

 政治家は問題を抽出して、解決するのが基本的な仕事です。抽出は主に議員が担当するわけです。解決は首長や執行側が担当する。私は議員も首長もやらせていただき、両方とも訓練されてきた。問題を挙げて、解決策の提案までできると思うんです。

 私はこれまでどちらかというと、人々がどう望むかによって動いてきています。中島(勝敬)市長が入院して、市長を辞めた。それで、県議だった安楽岡さんが市長に出られ、急きょ私が県議になった。その後、安楽岡市長が亡くなって、また急きょ、です。与えられたもの、ミッションを全うすると。

 突然のことに対応できる訓練は受けておかなくてはならないんです。私は大臣秘書官とか、県議を経験して、地域の課題を抽出する能力を鍛えられてきた。それで力を発揮できる。与えられたところで、一生懸命やらせていただくということです。

 すとう・かずおみ 1967年12月8日生まれ。群馬県館林市出身。栃木県立足利高-学習院大卒。谷津義男衆院議員の私設秘書を務め、2000年に谷津農水相秘書官就任。07年群馬県議選・館林市区で初当選し、3回連続当選。17年館林市長選で初当選したが、21年市長選では敗れた。2年間の浪人生活を経た23年4月、再び県議選に挑み、4回目の当選を果たした。