店舗の前に立つ子どもの頃の博通さんら=1950年代前半
「上州銘菓 下馬将軍」と発売時の茶会に参加した人の芳名帳
新妻屋について語る高野博通さん(左)と善明さん

 「上州銘菓 下馬将軍」など、和菓子を送り出してきた新妻屋(前橋市表町)。戦後の区画整理で中心市街地から前橋駅北口に移転し、新製品開発や新事業への進出、新店舗の展開などたゆみない挑戦を続け、約140年の歴史を紡いできた。5代目の高野善明社長(45)は茶席で出される主菓子に力を入れるなど、競争の激しい菓子業界で独自性の確立に余念がない。

■繭玉まんじゅう
 1882(明治15)年、広瀬川と立川町通りが交差する場所に初代・三次が「高野菓子店」を創業した。周辺には製糸工場が並び立ち、街は活気にあふれていた。「近くの工場の従業員も、商売の相手にしていたのではないか」。4代目の博道相談役(74)は推測する。

 当初はまんじゅうや団子などを扱っていたとみられる。三次は1926年に亡くなり、長男の善太郎が後を継いだ。善太郎の修業先が「下妻屋」という店だったことから、1字をもらい現在の店名「新妻屋」に改称したと伝わる。

 善太郎の体が弱かったこともあり、跡継ぎとして期待された次男の源次郎は尋常小学校卒業と同時に、埼玉県熊谷市の「中家堂」に修業に出る。軍配の形をした焼き菓子「軍配瓦せんべい」が人気商品だった中家堂での6年間の修業を経て、35年に家業を手伝うようになった。源次郎が戻って間もない39年に善太郎が他界し、源次郎が3代目となった。

 源次郎は新商品の開発に熱心だった。山芋の一種のつくね芋に米粉を合わせた「薯蕷(じょうよ)生地」で黒糖あんを包み、繭型に整えて蒸し上げた「繭玉まんじゅう」を考案。ふっくらとして甘いまんじゅうは、生糸の街として名高かった前橋にぴったりの菓子として人気商品となり、手土産となった。

 しかし、戦時色が濃くなっていく時代で徐々に商売は厳しくなる。源次郎は42年に徴兵され、宇都宮で衛生兵として務めることになった。

 男手がなくなった新妻屋は休業状態に。善太郎の妻、きくが店を守っていたが、45年8月5日の前橋空襲で立川町の店舗は焼かれ、菓子作りの道具も焼失してしまった。

■幸運をつかむ
 立川町の店舗跡が区画整理の対象になったことから、現在の本店がある田中町(現在の表町)に移転した。前橋駅前の新天地は精肉店や青果店など数十の店舗が軒を並べ、往来も多くてにぎやかだった。

 戦火で資金も資材も失ったが、この時期に宝くじで高額当選する幸運に恵まれて再建に弾みが付いた。源次郎は真面目で宝くじなどを買わない性格だったというが、博道さんは、源次郎が「天の声が聞こえた」と話したことを覚えている。

 運を味方に付けた源次郎は、菓子作りに力を入れた。新妻屋の看板商品で、小麦と卵を使った瓦せんべい「下馬将軍」が生まれたのはこの頃だった。

企業データ
▽本店 前橋市表町
▽会社設立(法人化) 1950年
▽従業員 7人
▽事業内容 菓子製造販売
▽拠点 青柳大師店(同市北代田町)

1882年 初代・高野三次が高野菓子店を立川町(現在の前橋市千代田町)で創業
1926年 善太郎が2代目に就く。その後、新妻屋に屋号を変更
 35年 源次郎が修業を終えて入店。「繭玉まんじゅう」を開発
 39年 源次郎が3代目に就く
 45年 前橋空襲で店舗を焼失。終戦
 47年 区画整理で移動した同市田中町(現在の表町)で事業を再開
 51年 「上州銘菓 下馬将軍」完成
 71年 博道さん入社
 78年 結婚式の引き菓子に参入。その後、ニチイ前橋店などにも出店
 90年 博道さんが4代目に就く
 96年 青柳大師店を開業
2006年 善明さん入社
 17年 善明さんが5代目に就く

◎歴史踏まえ県都の銘菓
 戦後の復興期を迎え、前橋の歴史家らが名産の小麦を使った「前橋を代表する銘菓」を作ろうと動きだした。相談を受けたのは、新妻屋の3代目、高野源次郎だ。

 前橋藩主だった大老・酒井忠清が「下馬将軍」と呼ばれたことや、新妻屋が江戸城門外の「下馬札」の拓本を持っていたことから、源次郎は拓本を基にした焼き菓子を発案。拓本から起こした焼き型に、小麦と砂糖、卵を混ぜたタネを流し込んだ「上州銘菓 下馬将軍」を完成させた。源次郎が「軍配瓦せんべい」で有名な中家堂で修業していたこともヒントになったようだ。

■パンと和菓子
 1951年には「上州銘菓 下馬将軍」の完成を記念し、酒井家の菩提(ぼだい)寺である龍海院(同市紅雲町)に名士を呼んで茶会を開くなどキャンペーンを行った。日持ちする下馬将軍は大量に用意ができることから手土産にも重宝され、人気を呼んだ。復興期に重なったこともあり、店内には菓子を焼く甘いにおいが一日中立ちこめていた。

 和菓子を軸に、時代に合わせてさまざまな商品を扱った。源次郎の妹が嫁いだパン店のパンを販売した時期もあり、店は前橋駅やバスの利用者らでにぎわった。昼時には近くの税務署にパンを売りに行くなど、和菓子とパンが両輪となって経営を支えた。

 60年代前半に現在のスズラン百貨店前橋店(同市千代田町)の近くに5坪ほどの小さな支店を出した。盛況だったが、区画整理のために5年ほどで閉めざるを得なかった。

 「お前は菓子屋になるんだ」。子どものころから言われ続けた4代目の高野博道相談役(74)は大学卒業後、違和感なく菓子の道に進んだ。宇都宮の和菓子店と静岡の洋菓子店で各1年間修業し、71年に新妻屋に戻った。

 博道さんは戻ってすぐ、洋菓子店での経験も生かしてショートケーキなどを店頭に並べた。利益は出ていたが、和菓子と洋菓子の両方が中途半端になってしまうことから1年半ほどで洋菓子の販売は終了した。

 ただ、経験が無駄になったわけではなかった。博道さんが開発した「上州わらべ」は洋菓子の技法を応用したものだ。卵の黄身を使ったあんにラムレーズンを合わせ、ホワイトチョコレートで包んだ小ぶりの焼き菓子は根強い人気があり、ロングセラーとなっている。

■バブルに乗って
 試行錯誤を繰り返す中で、78年に結婚式を執り行える前橋商工会議所会館(同市日吉町)が建設された。新妻屋は、結婚式を運営するスワン(同市大渡町)に売り込み、引き菓子や赤飯の製造を始めた。高度経済成長からバブル景気に向かう時代で、結婚式は大規模化。新妻屋は赤飯を蒸す機械などの設備を導入し、取引する結婚式場も増やした。

 週末には夜を通して赤飯を作り、朝に数百個の赤飯を納品した。店を夕方まで開けつつ夜に赤飯をまた炊く、目まぐるしい日々だった。

 バブル景気に乗って15年ほどは盛況だったが、結婚式の洋風化が進んで和菓子や赤飯の需要が減ると、売り上げも落ち込んだ。「ボロボロになるより、余裕を持って辞めたい」。潮時とみた博道さんは、結婚式関連の大規模な受注からは手を引いた。

◎伝統と革新 両立に挑む
 新妻屋は1990年ごろ、創業当初に店を構えた中心商店街に、ニチイ前橋店(同市千代田町)のテナントとして3度目の進出を果たした。ニチイでは大手メーカーの和菓子が半額以下で売られていたが、味や品質を求めて新妻屋の菓子を買う常連客が多かった。契約の都合で店は2年ほどで閉じたが、4代目の高野博道相談役(74)は手応えを感じていた。

■市北部に出店
 前橋駅北口の本店周辺の事情も、時代とともに変化した。路上駐車の取り締まりが厳しくなって駐車場が必要になったが、地価が高くて駐車場の確保は難航。顧客が多かった市北部に駐車場付きの支店出店を計画した。

 同市北代田町に土地が見つかり、出店を決断。7台分の駐車場を設けた「青柳大師店」を96年12月に開店した。「腹を切る思いでの出店」(博道さん)だったが、顧客に恵まれて売り上げを順調に伸ばした。

 新商品は、店頭に並ばないものを含めて毎年何十種類も開発し続けた。博道さんは「客の好みの変化やはやりを敏感に取り入れ、開発を続けた。それでも『繭玉まんじゅう』や『下馬将軍』を超える商品はなかなか生まれない」と難しさを語る。

 野村総研でシステムコンサルタントをしていた5代目の善明社長(45)は、2006年に新妻屋に入社した。会社員をしながら製菓学校に通い、30歳での挑戦だった。入社後は3代目・源次郎の時代から働く60代の職人に新妻屋の菓子作りを一から教わった。

 善明さんが会社員時代に茶道を習っていたこともあり、茶席で使う主菓子に力を入れている。茶席の趣向を亭主から聞き、季節感も考えて茶会向けの特注品を作る。大変さもあるが、季節やアイデアを形にでき、一期一会の楽しさがあるという。19年に来日したコスタリカ大統領の夫人をもてなす茶会など、大きな舞台で提供されたことも少なくない。

■季節に合わせ
 商品開発には余念がない。10年ごろには小麦粉や香煎、くるみなどを使った一口サイズの和風クッキー「茶々丸」を発売した。イチゴなど果実を入れた、くずようかんを凍らせた「くずバー」も昨夏に投入し、溶けないアイスとして好評だ。

 善明さんは「日本文化を伝えるため、季節に合わせた和菓子作りを大切にしている」とする。店頭には七五三や十五夜、彼岸などの季節の菓子を用意する。その一方で、ナッツを使ったおはぎなども生み出した。和菓子に親しみを持ってもらうためオンラインの和菓子教室を開催するなど、時代に合わせた取り組みも続けている。

 善明さんは「おいしいと喜んでもらえることが一番。職人としてのスタートが遅かったので、良いものを作るために手間を惜しまずに菓子と向き合っていきたい」と和菓子作りへの姿勢を語る。明治時代から続く試行錯誤のDNAは伝統と革新の両立に向け、挑戦を続ける。

【取材後記】ぶれない主軸
 「くずバー屋になるつもりはありません。何に力を入れるかははっきりしている。和菓子を基本にしたい」。果実入りの「くずバー」の種類を増やせば写真映えし、話題になりそうだと筆者が指摘した時、高野善明社長がそう答えた。

 企業が生き残るためには、自社の強みをどう見定め、どの分野で発揮するかが問われる。強みにはこれまで歩んで来た歴史や蓄積してきた技術、ノウハウが影響する。

 新妻屋はさまざまな分野で挑戦を続けているが、主軸はいつも和菓子だ。その中で繭玉まんじゅうや下馬将軍など新商品を次々と生み出してきた。

 基本を守りながら、消費者の好みに合った商品を投入し続けたこと。移り変わりの激しい菓子業界で新妻屋が生き残れたのは、そこに要因があるのではないか。善明社長のひと言から考えた。