石坂荘作
新たに発見した荘作ら一族の墓の写真を見る(右から)片桐さん、倉田さん、手島さん

 日本と台湾の友好の礎を築いた、群馬県東吾妻町原町出身の石坂荘作(そうさく)=ズーム=の遺骨が埋葬された墓が、同所にある善導寺の裏山で見つかった。知られていた境内の墓とは別で、荘作の姉の子孫が発見した。周囲にあった墓石の建立者をたどり、荘作の弟の子孫が東京都内におり、位牌(いはい)を継承していたことも判明。台湾で死去し、郷里に残した足跡が少ない荘作の評価と研究が深まりそうだ。

 荘作の遺骨は分骨されて同寺に埋葬されたと伝わっていたが、境内の墓にはなかった。参拝と埋葬の墓を分けていたとみられ、裏山には荘作の父、弟など一族の墓が並んでいた。

 荘作は実子がいなかったため、近い関係にあるのは共に台湾に渡った弟の健橘(けんきつ)の子孫と、原町の片桐家に嫁いだ姉、ちかの子孫となる。いずれの子孫も台湾に先祖や親戚がいたことは伝え聞いていたが、最近まで荘作との縁を知らず、墓を訪れる人もいなかった。子孫たちは寺と相談し、埋葬墓を大切に管理していく考えだ。

 参拝墓には地元有志でつくる石坂荘作顕彰会による案内板が設置されているため、観光客などには今まで通り荘作の墓として参拝してもらう。

 埋葬墓発見のきっかけとなったのは、戦前に台湾の郵便局に勤めた祖父のルーツを調べていた横浜市の男性が、遺品の中から荘作の埋葬墓の写真を見つけたことだった。男性は2021年11月、荘作に関する著書「石坂荘作と顔欽賢」(上毛新聞社刊)がある群馬地域学研究所代表理事の手島仁さん(63)に連絡。写真が撮影された場所が台湾なのか、国内なのかも分からなかったが、手島さんは参拝墓とは別の他の墓の存在を確信した。

 一方、手島さんは22年9月、荘作の姉の嫁ぎ先、片桐家の子孫の倉田純子さん(66)=高山村=と知り合い、墓の写真についても情報を交換。調査を進める中で、倉田さんの弟、片桐英俊さん(60)=渋川市=が子どもの頃、父と善導寺の裏山へお参りに行ったことを思い出した。

 裏山は訪れる人が少なく、やぶに覆われていた。片桐さんは何度もルートを変えて分け入り、22年10月、草木や枯れ葉に埋もれた石坂家の墓を発見した。片桐さんは「何十年も墓を訪れる人がいなかったのでは。大事に守らなければと思った」と話す。

 その後、片桐さんは墓の建立者を調べ、健橘の子孫にたどり着いた。子孫は石坂姓ではなかったが、石坂家の代々の位牌を保管していた。遠方のため管理は片桐さんに任せる方針というが、いずれ墓参したいと話しているという。倉田さんは「人の縁がこんな形でつながるとは。吾妻の人が海外に目を向けてくれれば荘作も本望だと思う」と話す。

 国内には荘作の資料やゆかりの地が少なく、手島さんは「大きな発見」と評価する。墓が建立時のまま残され、当時の埋葬の風習を確認できたことも重要だという。「荘作は台湾で模範となった人物。功績をもっと知られていい」と指摘している。

 石坂荘作(1870~1940年)27歳で台湾に渡り、北部にある基隆(キールン)市で石坂商店を開業。はかりやたばこなど専売品の販売で成功した。「台湾で得たものは台湾に返す」という思いで教育や文化の発展に尽力し、現地で「基隆聖人」と親しまれた。郷里の東吾妻町は荘作との縁で台湾との交流事業を続けている。