▼本県にとって東京への玄関口であるJR上野駅を出ると、地下鉄へと続く古い地下道がある。第2次世界大戦後、この場所に戦争で肉親を亡くした多くの戦争孤児が暮らしていた。「駅の子」とも呼ばれた

 ▼全国で12万人以上に上った孤児の中で、最も多い年齢層が8~14歳だった。その背景にあるのが、戦争末期に都内だけで20万人が行った学童疎開だ。集団での疎開の対象は小学3~6年生だった。本県には2万8千人以上が疎開したともされ、全国有数の疎開の受け入れ県だった

 ▼疎開という政策で多くの児童の命が救われた一方で、多くの孤児が生まれた側面もある。戦争孤児の会元代表の金田茉莉さんは自著で、孤児に対する戦後の国の対応について「とても命が守られたといえる状態ではなかった」と批判する

 ▼孤児たちの多くは親戚や知人の家で育てられたが、教育、就職、結婚とさまざまな場面で不当に差別された。生き残ったことに苦しみ、心に傷を負った孤児の中には、戦後70年以上を経てようやく体験を語り始めた人も多い

 ▼ある女性の手記にある「お話しできるのはほんの一部です。言葉にできない諸々が、心の底で空しくうごめき続けています」という言葉が重く響く

 ▼親たちがわが子の命だけでも助けたいと願って送り出した疎開と、生き残った子どもたちが抱えた苦悩。その不条理を想像し、不戦の意味を考えたい。