▼若き日、心に深く刻まれた言葉や経験が、その後の生き方を決めてしまう例は少なくない。元上野村長の黒沢丈夫さん(1913~2011年)にとってそれは、海軍兵学校で学んでいた20歳前後のことだった 

 ▼個性的な教育方針で知られた指導官から、講義で「十牛図じゅうぎゅうず」を解説する印刷物が配られた。禅の教えで、悟りに至るまでの10段階を、牛と牧人との関係になぞらえて描いた10枚の絵からなる

 ▼自身の弱さや死への恐れに苦しんでいた黒沢さんは、「真の自己」を探していく内容に、毎回強く引き付けられた。資料はたまっていき、1冊の書籍ほどの厚さになった

 ▼ところが指導官は最後に学生たちにすべて焼却させてしまう。もう一度読んで勉強したいと願っても、すでにない。しかし、「それによって、一層深みのある、尊い教えだと感じることができた」という

 ▼元日に届いた年賀状で今年のえと「うし」の文字を目にして、かつて取材で聞いたこのエピソードが浮かんできた。兵学校を出た後、ゼロ戦搭乗員、指揮官として過酷な戦争体験を重ね、戦後は、日本の農山村振興のために数々の先駆的施策を打ち出した 

 ▼そうした輝かしい仕事の基盤に、自ら深く学び考えることを促した師の教えがあったのだと実感できた。97歳で逝って10年を迎える黒沢さんの遺訓でもある。