▼〈イワナのもっとも堅固な隠れ家は、「昔」の中である。私に釣られるはずの幾千のイワナはどういうわけか知らないけれど、幽谷の滝壺(つぼ)の奥深くではなく、みな「昔」の中に逃げ込んでしまうのだ〉

 ▼これは元編集者、湯川豊さんの『イワナの夏』というエッセーの一節。西洋式毛ばり釣りの名手であり、「昔は良かった」という話ばかり聞かされる釣り師の心境を言い当てて見事だ

 ▼釣り師にはなぜか名文家が多い。本県関係では『たぬき汁』の佐藤垢石が知られるが、根岸治美さんもその一人。かつての奥利根の様子をつづった随筆を読むと、ため息がもれる

 ▼根岸さんは1929年、伊勢崎市生まれ。呉服店を経営し、仕事の合間を縫って奥利根に通い詰めた。『さすらいの山釣り』など釣りや山遊びの魅力を紹介した著書のほか、詩集を出す趣味人でもあった

 ▼上毛新聞にも随筆を寄せている。〈ザイルを使って谷を下り、全員竿(さお)を振った時はすさまじかった。各竿に四十センチ級の大イワナが躍り、満月のように竿がたわんでいる〉。今となっては夢のような話ばかりである

 ▼ダム建設のため木が切られ、山が裸になっていくのに心を痛め、ついには「魚がかわいそう」と釣り竿を持たず渓流を歩くようになった。「なぜ国はもう少し自然に対して目を向けてくれないのか」。言葉が胸に響く。