▼釣りの世界は奥が深い。カジキを狙う豪快な釣りがあれば、繊細なタナゴ釣りもある。道具も多彩。螺鈿らでん和竿わざおから本物そっくりの疑似餌まで。美術品のような道具を見ると、道楽とはこのことかと思う

 ▼格言も多い。「心はおもりに置け」という哲学めいたものから「下手の長竿」という耳の痛い言葉も。落語家の3代目金馬は〈釣雑誌誰にも釣れるように書き〉と詠んだ

 ▼太公望といえば、作家の井伏鱒二もその一人。名前からして熱の入れようがうかがえるが、前橋出身の佐藤垢石からアユ釣りの手ほどきを受け、渓流を中心に釣り歩いた

 ▼70歳を過ぎた井伏を「釣りの引退興行」に誘ったのが開高健だ。井伏はある湖に案内され、魚籠びくが破れそうになるほどのマスの入れ食いを体験した。釣り師は決して穴場を言わない。随筆に書く場合は〈あの〉と書いて場所は明かさないと約束した

 ▼2人が没した後、〈あの湖〉とは片品村の菅沼だと明らかになった。当時、通年禁漁だったが、開高は特別な許可を得て、こっそり楽しんでいた。釣りをしてはいけない場所だったので口外できなかった

 ▼現在の菅沼は人数と日数を制限して釣り客を迎えている。コバルトブルーに輝く湖水が育むのは大きなニジマス。釣りざおを手に湖畔に立つと、文豪たちが目にした風景が今も変わらず迎えてくれる。