▼かつて館林市と邑楽町の境界上に全国でも珍しい個人建設の飛行場があった。自作機で茅ケ崎海岸から伊豆大島まで飛んだ大西勇一さんが造った。田畑の中に延びる滑走路は600メートル。2004年に廃止されるまで、軽飛行機が飛び立った

 ▼「滑走路」という言葉には未来へと助走するような明るい響きがある。おそらく第一歌集にその名を付けた萩原慎一郎さん(享年32歳)もそんな未来を夢見ていたはずだ。だが、それは自死によって痛恨の遺歌集となった

 ▼都内の中高一貫校に進学。学びやで待っていたのは周囲によるいじめだった。精神的な不調に苦しみ、自宅療養と通院生活。大学を卒業したが希望した職に就けず、非正規雇用となった

 ▼挫折、失恋―。夢を描けない中で必死に詠み続けた。〈ぼくも非正規きみも非正規秋が来て牛丼屋にて牛丼食べる〉〈消しゴムが丸くなるごと苦労してきっと優しくなってゆくのだ〉

 ▼身を寄せたのは歌会始の選者を務める三枝昻之さん主宰の「りとむ短歌会」。三枝さんは「現代の青春がいかに多くの困難を抱えているか。歌集にはその困難が痛々しいまでに充満している」と早世を悔やむ

 ▼〈空を飛ぶための翼になるはずさ ぼくの愛する三十一文字が〉。伸びやかな口語で青春の蹉跌さてつを歌った「滑走路」。共感を呼び、多くの読者を励ましている。