三山春秋
- 最初の記事:2012/06/25【三山春秋】ゆるいマスコット・キャラクター・・・
- 前の記事:2017/06/04【三山春秋】国民的アニメのドラえもんは未来の世界で作られた秘密道具を持っている。「どこでもドア」の…
▼言葉の意味が変わっていく。危険人物を指したはずの「やばい人」を、若い世代はすてきな人、すごい人の意味で使っている
▼誤用はいかがなものかと思っていた矢先、先月の第45回朔太郎忌は「どこがヤバイの? 朔太郎」のテーマで開かれた。詩の世界はさすがに柔軟だ
▼昨今は、鳥肌が立つ気味悪さが「鳥肌ものの感動」に変わり、諦めの悪いこだわりが「こだわりの味」と褒め言葉になる。考えてみれば大昔は一人称の「手前」や敬語の「貴様」も、けんかの時のテメェ、キサマに百八十度転じていて、言葉は本質的に変化するものらしい
▼政治家がしきりに「誤解を招いた」と釈明するのを見ると、誤解の意味も変わったかと思う。「働かなくていい」と言った大西英男衆院議員は「働かなければいいという趣旨で発言していない」との説明で、意味は明解なのに誤解とはよく分からない
▼今村雅弘前復興相も辞任に至る前、「誤解を与えた」と述べた。誤解の意味を「失言による批判や反感」とすれば、話がすっきりする
▼「健全な精神は健全な身体に宿る」の格言は、誤解されて広まっている。諸説あるが、不正が横行した古代ローマの時代、「健全な精神が宿ってほしいのだが、なかなか難しい」と、元々は反語の意味だったと聞く。政治家は言葉に責任を持ってほしいのだが、なかなか難しいのだろうか。