▼言葉の意味が変わっていく。危険人物を指したはずの「やばい人」を、若い世代はすてきな人、すごい人の意味で使っている

 ▼誤用はいかがなものかと思っていた矢先、先月の第45回朔太郎忌は「どこがヤバイの? 朔太郎」のテーマで開かれた。詩の世界はさすがに柔軟だ

 ▼昨今は、鳥肌が立つ気味悪さが「鳥肌ものの感動」に変わり、諦めの悪いこだわりが「こだわりの味」と褒め言葉になる。考えてみれば大昔は一人称の「手前」や敬語の「貴様」も、けんかの時のテメェ、キサマに百八十度転じていて、言葉は本質的に変化するものらしい

 ▼政治家がしきりに「誤解を招いた」と釈明するのを見ると、誤解の意味も変わったかと思う。「働かなくていい」と言った大西英男衆院議員は「働かなければいいという趣旨で発言していない」との説明で、意味は明解なのに誤解とはよく分からない

 ▼今村雅弘前復興相も辞任に至る前、「誤解を与えた」と述べた。誤解の意味を「失言による批判や反感」とすれば、話がすっきりする

 ▼「健全な精神は健全な身体に宿る」の格言は、誤解されて広まっている。諸説あるが、不正が横行した古代ローマの時代、「健全な精神が宿ってほしいのだが、なかなか難しい」と、元々は反語の意味だったと聞く。政治家は言葉に責任を持ってほしいのだが、なかなか難しいのだろうか。