▼〈いかにも、明治人であった〉。司馬遼太郎さんがそう表現したのは、米国で日本学を広めた旧津久田村(現渋川市赤城町)出身の角田柳作(1877~1964年)のことだ

 ▼その理由として、自然な謙譲さ、頑質なばかりの地味さなどとともに、〈すばらしい学殖と創造心をもちながら、著作を持つことに無頓着だったこと〉〈「私はまだ生徒ですから」というのが口癖だったこと〉を挙げた(94年刊『街道をゆく』)

 ▼米コロンビア大学で角田から直接、日本の歴史や文学、思想を学んだ日本文学研究者、ドナルド・キーンさん(93)の著作で角田を知り、研究の姿勢や生き方への深い共感を示した言葉である

 ▼困難な時代に異国の地で日本文化研究所を創立、「センセイ」と親しまれ、多くの優れた研究者を育てた角田の功績も、日本では必ずしも知られているとは言えなかった。このため司馬さんは「無名の巨人」と呼んだ

 ▼しかし、日米の架け橋となった仕事を再評価する動きは年を追って広がった。伝記の出版をはじめ、日米の大学合同による特別展示、シンポジウムなどがあり、研究も進んでいる

 ▼そんななか、出身地の渋川市でも、来年2月の合併10周年に合わせ、顕彰事業を始めるという。第1弾としてきょう19日に記念講演会を開く。地元からの 新たなセンセイ像の発信を期待したい。