▼天下人、織田信長と長男の信忠が本能寺の変で討たれたため、重臣たちが織田家の家督相続人を決めた清洲会議。後継に選ばれたのは、羽柴(豊臣)秀吉が推挙した信忠の遺児、三法師でわずか3歳だった

 ▼織田家筆頭家老の柴田勝家が推したのは三男の信孝。序列でいえば次男で有望だったはずの信雄(のぶかつ)は、誰にも担がれることがなかった。本人はさぞかし忸怩(じくじ)たる思いだったに違いない

 ▼それが尾を引いたのか、秀吉と勝家が激突した賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、信雄は秀吉にそそのかされて弟の信孝を自害に追い込んでしまう。その後は秀吉から離れ、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と組んでいる

 ▼豊臣と徳川の間を行き来しながら、時代の趨勢(すうせい)を読んだのだろう。大阪の陣では直前に徳川方に回り、1615年に豊臣氏が滅びると家康から小幡(甘楽町)2万石などを拝領。この地に大名庭園、楽山園を築いた

 ▼信雄の統治から400年。復元・整備された楽山園を散策しながら、その生涯を考えてみた。秀吉、家康に利用されながらも乱世を生き抜き、織田の血筋を残した功績は何より大きい

 ▼10人以上いた信長の息子のうち、江戸時代に大名として生き残ったのは信雄1人。小幡を四男の信良に任せて隠居し、趣味に生きて天寿を全うした。歴史の評価は父親に及ばないが、学ぶことは少なくない。