網膜色素変性症という目の難病を患っています。現在の視界を例えると、曇りガラスを通してストローの穴をのぞき見ている感じです。最初からそうだったのではなく、徐々に視力が落ちていったのです。普通にできたことができなくなるというのは、とてもつらいことです。だから、自分の将来に強い不安を抱えて生きてきました。
片方の眼だけが外を向いてしまう斜視もあります。人と目線が合わないこと、表情が険しくなってしまうことがコンプレックスです。その障害をどのように克服していったのか。その第一歩は中学時代にさかのぼります。
精神力を鍛えようと剣道部に入部しました。試合では3年間で一度も勝つことができませんでした。しかし、厳しい稽古をやり遂げたことを顧問の先生や仲間が褒めてくれました。初段を取得し、努力を認めてもらい、本当にうれしかったです。他にも弁論大会でクラス代表に抜てきされるなど、かけがえのない経験を積みました。
高校時代は特につらい時期でした。いじめから逃れたくて盲学校の編入試験を受けましたが、落ちてしまいました。盲学校に不合格があるとは思いもしなかったのでがくぜんとしました。しかしこの挫折が、自分と向き合う良い機会になりました。
ずっと前から医療・福祉の道へ進みたいと思っていました。病気のつらさが分かるからこそ、苦しんでいる人の気持ちに寄り添いたかったのです。両親が背中を押してくれ、覚悟が決まりました。高校卒業後、筑波大附属視覚特別支援学校に入学。群馬を離れ、寄宿舎生活を始めました。在学中は順風満帆とは言えず、留年し、国家試験に2度も落ち、就職するはずの職場から内定を取り消され、彼女にふられ…。傷心して実家に帰りました。
困難があるたびに恩師や友人が支えてくれました。予防医学に関心があったため、鍼灸(しんきゅう)マッサージの専門資格の取得も決意。四つの国家資格を取得後、地元の高齢者施設に就職しました。経験を積むと、機能訓練指導員として利用者の方にリハビリを提供したり、専門職や実習に来た学生を指導したりしました。個人的に東京や沖縄で高齢者を対象に介護予防教室を実施。鍼灸・整体の技術を磨き、仕事の幅が広がりました。妻子にも恵まれました。
障害のある私だからこそ、得られた気付きや学びがあります。高齢者のリハビリに携わり、分かったこともあります。それは、病気やけが、障害を負っても、諦めなければやりたいことやなりたい自分、楽しく笑って過ごせる毎日を手にすることができるということです。ただ、それには周囲の理解や支えが欠かせません。違いを認め、支え合う共生社会の実現に向けて、行動していこうと思います。皆さんも共に考えませんか。
【略歴】生まれつき弱視で高校卒業後、筑波大附属視覚特別支援学校に入学。理学療法士などの国家資格を取得し県内の高齢者施設に勤務する。高崎市(旧新町)出身。
2022/1/12/掲載