

宵闇が迫っていた。
東京拘置所1階、無機質な面会室。アクリル板に映り込んだ自分の相貌が、向こう側に座る永田洋子=元死刑囚、2011年に65歳で病死=と重なった。
控訴趣意書を作るため接見を続けていた弁護士、大谷恭子(71)=東京都北区=はわれに返った。
〈同じなんだ〉
連合赤軍が榛名山、迦葉山、妙義山で計12人の「同志」を殺害した山岳アジト事件。一審で死刑判決を受けた永田の控訴審から主任弁護人を務めた。もう40年近くたつ。
春秋に富んだ死者には、学生運動に携わった大谷の知己も含まれた。胸中に秘めたのは、同時代を共有した者の責任だった。
「自分たちの失敗」
今、大谷は連合赤軍に思う。
ベトナム戦争下の1968年。傷病兵を搬送する米軍の野戦病院が東京・十条に置かれた。地元で高校3年だった大谷は、高唱する反戦デモを間近に見た。
学生運動は全国に拡大。東京大は翌春の入試を取りやめた。
早稲田大に進み、ブント(共産主義者同盟)系の集会に顔を出した。拠点がある明治大に寝泊まりし、ビラを書いた。後に日本赤軍を統べる重信房子(76)=ハーグ事件で服役中=や榛名山アジトで死亡する遠山美枝子(享年25歳)もいた。
「授業はほとんど出ていない。運動しに行った」
69年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効日に合わせた「沖縄闘争」。先鋭的な学生は角材を鉄パイプに持ち替えた。機動隊が続々と大学拠点に入ることが予感されていた時期だったと、大谷は言う。
ブント系からはやがて、連合赤軍の前身となる赤軍派が形成された。「信頼していた、熱心な人たちが行った」。高校生を中心にオルグ(組織化)が進められた。
11月、山梨県の大菩薩峠で構成員が大量に逮捕された。爆発物を所持、首相官邸を襲う訓練をしていた。これを機に弱体化した赤軍派は、獄外にいた森恒夫=元被告、73年に28歳で自殺=を幹部に据えることになる。
〈怖い。私はできない〉
大谷は赤軍派に与しなかった。「救援」(逮捕者らの支援)として、公安事件に長じた法律事務所を手伝うようになった。71年にデモ活動から身を引いた。
あさま山荘事件(72年2月)の中継は事務所で見入った。「この頃までは心の底から応援していた。自分は勇気がなくて戦えなかった。きっと皆も」
直後、状況は一変した。
先に妙義山中で群馬県警に逮捕された森、永田の自供から、構成員同士の集団殺人が発覚。大谷が手伝う法律事務所に出入りしていた遠山の死もまた、伝わった。
一線を越えた者だけの罪と思えなかった。共感はしかし背徳のようで、多くは口をつぐんだ。
運動は解体に向かい、新左翼の一部は非公然化した。「小さな狼(おおかみ)たち」は74年以降、企業爆破などを引き起こした…。50年後、大谷はこう俯瞰(ふかん)する。
群馬の山へ入った者、向かわなかった者。分岐点はどこか。
凶器への抵抗感、ちゅうちょ、人間関係。合わなかった予定、電車の乗りそびれ。大谷はよどみなく挙げた。
「運、不運。だから『この時代の事件』なんです」
裁判の長期化を見据えた周囲に弁護士を目指すよう勧められた。登録は78年。逡巡(しゅんじゅん)し、合法的に背負うと決めた。
二審弁護団は同年代を中心に構成された。時代背景を重視しつつ、連合赤軍の足取りを方向付けた構成員個々の言動をすくい取り、事件の具体的な過程を洗い直した。
東京高裁は控訴を棄却。一審に続き、永田ら幹部個人の責めに帰した。
〈私だったかもしれない永田洋子鬱血(うっけつ)のこころは夜半に遂(つい)に溢(あふ)れぬ〉
上告審でも大谷は、自身が考える事件の実像を切言した。その弁論要旨の冒頭、全共闘世代の歌人、道浦母都子を引いた。
〈何ゆえにわれに来てわれを苦しめむひとつ時代のこぼしたる科(とが)〉
93年、上告棄却。永田の死刑は確定した。
(敬称、呼称略)
◇ ◇ ◇
連合赤軍事件を再考する連載「連赤に問う」。第三章は運動に肩を並べた者たちの言葉から、彼らをのみ込んだ時代の渦の深淵(しんえん)を描く。