本社前に立つ清水社長
昭和初期とみられる上棟式の様子
滑川の氾濫を乗り越えて現在も創業の地に立つ蔵
里見村役場などの建築の際に屋根裏に納められた板
会社の屋号紋はデザインを変え、今も使われている

 建築や土木、木材などを手掛ける総合建設業の研屋(とぎや)(群馬県高崎市飯塚町)は、歴代当主が早世する中、若い後継ぎを番頭や親族が支え、事業を発展させてきた。災害や戦争、不況など幾多の苦難を乗り越え、144年の歴史を刻んでいる。

祖先は刀鍛冶

 うっそうとした山が迫る同市下室田町内に、研屋の創業の地がある。祖先は新潟からたどり着き、刀鍛冶をしていた。廃刀令が出され、武士の世が終わりを告げて間もない1878(明治11)年、初代の清水藤太郎が「研屋木材店」を興した。榛名山を流れる滑川のほとりで水車を回し、それを動力源に木材をひき始めたという。

 滑川の水量が少なかったため、1902(明治35)年には倉田村権田(現在の高崎市倉渕町)に工場を移し、製材技術の開発に努めた。婿に入った2代目の半三郎とともに、高崎方面に販路を広げた。

 事業は順調だったが、当主はいずれも70歳を待たずに亡くなっている。20(大正9)年に藤太郎が64歳で亡くなり、後を継いだ半三郎は21(大正10)年に43歳の若さで急逝。3代目の一郎は、25歳で家業を継いだ。

 精力的だった一郎は、26(大正15)年に土木建築の請負業に参入した。現在本社を置く同市飯塚町に高崎支店を開設し、33(昭和8)年に合名会社「研屋商店」を設立。きょうだいで協力し、事業を拡大していった。

 6代目の一希社長(38)は「製材業をしていたので資材を調達しやすかったことがあり、土木建築の請負業に進出したのではないか」と推測する。一郎は対外的な活動も積極的にこなし、室田町(現在の同市)の町議を4期務めた。

不幸中の幸い

 順調に家業を拡大していたさなかの35(昭和10)年9月、研屋は天災に遭う。烏川流域が豪雨に見舞われ、至る所で土石流や山崩れが発生。滑川も氾濫し、室田町の建屋や設備などが流され、権田の製材所も壊滅的な被害を受けた。被災をきっかけに、本社を市街地へと移すことになった。

 被害は大きかったものの、研屋は比較的早く立ち直った。一族の正郎(まさお)専務(64)は「高崎支店を設けていたことが、不幸中の幸いだったのかもしれない」と振り返る。

 37(昭和12)年には里見村(現在の同市榛名町)の役場の新築工事を請け負うなど業績は好調で、いっときは現在の国道17号の辺りから北高崎駅までの土地を所有するほど隆盛を極めた。太平洋戦争中に、一郎の弟で後に市助役なども務める吾一ら幹部が徴兵されるなど苦労もあったが、必死の思いで事業を継続した。

【企業データ】
▽所在地高崎市飯塚町
▽会社設立(株式会社化)1955年
▽従業員約100人
▽事業内容建築・土木・木材
▽拠点 倉渕営業所(高崎市倉渕町三ノ倉)、本社工場(同市大橋町)、権田工場(同市倉渕町川浦)、JPR本庄デポ(埼玉県本庄市)

1878年 清水藤太郎が研屋木材店を創業
1902年 倉田村(現高崎市倉渕町)権田に製材所を建設
 20年 半三郎が2代目就任
 21年 一郎が3代目就任
 32年 高崎市飯塚町に拠点を構える
 33年 合名会社研屋商店を設立。
 55年 株式会社研屋に組織変更
 56年 4代目・喜代四が社長就任
 73年 現社屋完成
 79年 5代目・一雄が社長就任
 90年 プレカット工場新設
 94年 木材チップ舗装「アスウッド」販売
2007年 高崎製材工場を権田工場に移転統合
 09年 6代目・一希社長が就任
 21年 ICT対応のモーターグレーダーを導入

>> シリーズ《老舗のDNA 群馬の百年企業》の記事をもっと読む