1973年に建設された研屋の本社(提供)
昔の建設現場で使った重りなどが残される
一郎が建設費を負担した少年の家の建築現場(提供)
喜代四の時代に運営されたコンクリートのプラント(提供)
本社の壁面に飾られた分部順治の作品
一郎は美山観光バスなどさまざまな事業を立ち上げた

 苦しい戦中を耐え抜いた研屋(とぎや)商店。戦後は周辺の町村役場や学校の建築を請け負うなど復興需要を取り込み、事業を拡大する。前橋医科大学(現在の群馬大医学部)や安中中学校などの建築現場の写真も数多く残されている。

少年の家支援

 3代目社長の清水一郎は社会貢献活動に力を入れた。高崎市議を務めた弟の吾一の紹介で、戦争孤児を受け入れていた児童養護施設「少年の家」(現在の「鐘の鳴る丘少年の家」)の移転工事を手掛けた。

 少年の家は当時、前橋市文京町の借家で運営されていたが、多くの子どもがいたため手狭になっていた。そこで1953(昭和28)年、大胡町(現在の同市堀越町)に移転することになった。敷地内に事務棟や寮などを建設し、一郎は工事費300万円を負担したという。

 当時を知る、少年の家の品川道雄理事長は「戦後の大変な時期に支えてもらった。今の少年の家があるのは支援があったからこそ」と感謝する。研屋と少年の家の交流はその後も続いた。一郎の銅像は今も施設の敷地内に飾られ、子どもの成長を見守っている。

 親分肌だった一郎は、職人の面倒見も良かった。本社の近くには職人を住まわせる多数の長屋を建設。3食提供し、衣食住に困らないようにした。一郎の妻や従業員の妻たちは協力して食事を作り、夫たちの帰宅が遅くなっても食べずに待つなど、家族一丸となって会社の成長と復興を支えた。長屋には、復員して家のなかった人も住まわせた。

 その長屋から独立した職人が立ち上げた企業とは、今でも共に仕事をする。親子孫3代にわたり、長い付き合いになっている例も珍しくないという。

芸術家育成

 一郎は経営の多角化も進めた。54年には孫にも通わせようと三山幼稚園(高崎市並榎町)を設立し、弟の吾一が初代の園長兼理事長を務めた。そのほかにも美山観光バスを設立してレジャー産業に参入したり、タクシー会社を立ち上げたりした。精力的に事業を拡大した一郎だったが、株式会社研屋に組織変更した直後の56年に61歳で息を引き取った。

 4代目を継いだ喜代四は、高度経済成長の波に乗ってさらに事業を拡大する。生コンクリートやアスファルトのプラントを造って急増する需要に対応し、手広く商売をした。当時、高崎市で初めての鉄筋コンクリートの中学校だったという四中(現在の並榎中)を建設するなど、先端の建築手法を取り入れた。

 新しいものを好んだ喜代四は海外によく出掛け、米国製の車に乗るなど羽振りが良かった。芸術家の育成にも熱心で同市出身の芸術家、分部順治の彫刻などを購入して支援。多くの作品が社屋に展示されている。

 73年には4階建ての本社を建設。組織の充実を図っていたさなかの79年、喜代四は軽井沢の別荘で急逝した。

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