岩佐中佐の肖像画
発見された遺書の写しと印刷物

 太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃で戦死し、「軍神」とたたえられた岩佐直治中佐(1915~41年)の遺書の写しと、肖像を掲載した印刷物が群馬県前橋市の住宅から発見された。岩佐中佐が卒業した旧制前橋中の関係者へ戦時中に配られたものとみられる。専門家は「当時中佐がどう扱われたかを伝える史料。現存する物は少ないのではないか」と価値を語る。所有者は歴史的価値を鑑み、県に寄託する考えだ。

 史料は昨年12月、同市公田町の町田修一さん(68)方から発見された。遺書の写しの包みに「群馬県立前橋中学校」と記されていることから、町田さんは「卒業生である祖父か父がもらったものを保管していたのでは」と推測している。

 父母に宛てた遺書の写しには「現下の時局に対処し得たるは直治最大の栄誉なり」など死を前にした岩佐中佐の言葉がつづられている。印刷物には中佐のほか、真珠湾で同じく戦死した部下8人と当時の海軍大将、山本五十六の肖像が並ぶ。印刷物は中佐らの死をたたえて作製されたもので、「其武勲抜群なりと認む」などと書かれた山本からの感状も掲載されている。

 歴史に詳しい群馬地域学研究所の手島仁さん(62)によると、岩佐中佐らの死は翌42年の3月に大本営から発表された。卒業生が「軍神」となったことを受け、旧制前橋中は中佐の胸像を作製するなどした。遺書の写しと印刷物もこの頃に配られた記念品とみられる。

 手島さんはその歴史的価値について「中佐が当時どう顕彰されたかが分かる史料」と説明する。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に発見されるのを恐れて胸像が地中に埋められるなど、中佐を称賛する空気は後退。記念品も廃棄されるなどして現存するものは少なく、貴重な史料と考えられるという。

 町田さんの妻、悦子さん(65)が家屋の建て替えに向けて整理をしていたところ、掛け軸を納めた箱の中から見つかった。悦子さんは「捨ててしまう可能性もあった。価値のあるものだと知って驚いている」と目を丸くし、「当時を今に伝える史料として後世に継承することが先祖の本望だと思う」と語った。

 修一さんの祖父、寿男さん(1898~1987年)は下川淵村(当時)の村長を務めるなど地域の有力者だった。町田さん方からは江戸時代の検地帳なども見つかっており、記念品と合わせて県立文書館に寄託するという。

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