「失敗もたくさん。チャレンジし続けてきた」と語る康利会長。のれんは「笠嘉織物」の印を入れて復刻した
糸で立体的に表現したアクセサリーのブランド「トリプル・オゥ」。百貨店などでも人気を集める
2代目の盛(後列右から2番目)の次男が出征する際の写真。一族が見送った(提供)昭和20年代に改築したとされるのこぎり屋根の工場
2代目の盛(後列右から2番目)の次男が出征する際の写真。一族が見送った(提供)昭和20年代に改築したとされるのこぎり屋根の工場

 笠盛(群馬県桐生市三吉町)は、帯を織る機屋を前身とし、洋装の増加から刺しゅう業に転業した。10年ほど前からは、刺しゅうで立体的に仕上げたアクセサリーのブランド「トリプル・オゥ」が人気を集め、知名度を上げている。石油危機や海外事業からの撤退などで倒産の危機に直面したこともあったが、変わらぬチャレンジ精神で乗り越え、歴史をつむぎ続けている。

のこぎり屋根

 住宅街に入って一方通行の道を進むと、木造ののこぎり屋根が見える。創業家の自宅周辺に工場を造り、事業拡大に合わせて改築を繰り返してきた。

 笠原康利会長(73)の曽祖父に当たる嘉吉が1877(明治10)年、機屋を立ち上げた。当初は嘉吉の名前から「笠嘉織物」を名乗った。敷地のすぐ前を流れていた水路で回す水車を動力源として織機を動かした。織都・桐生の繁栄とともに、笠嘉織物にも仕事が舞い込んだ。

 2代目の盛(もり)は1916年に家業を継ぐと「笠盛織物」と改称した。盛は世界恐慌のあおりを受け、苦しい経営を強いられた。借金の保証人を引き受けた知人らが行方知れずになる不運が重なり、従業員をほぼ全員解雇せざるを得なくなった。長男で3代目の勝は15歳ごろから仕事を手伝い、機械全般の調整を一手に担った。

 「借金取りのやくざが来るという悪夢にうなされ、祖父(盛)が夜中に私の安否を確認しに来たことがあった」。康利会長は、おぼろげに覚えている。

 第2次世界大戦が始まると、工場に並ぶ織機は金属の供出で召し上げられ、開店休業状態になった。その間、盛は帯の研究に励んだという。戦後に大ヒット商品となる「笠盛献上」は盛の熱心な研究成果と、機械を熟知した勝の発明力が掛け合わさって生み出された。

 献上とは特有の模様で織られた帯で、幕府への献上品としても使われたものを指す。絹製で高価だった献上を多くの人に手軽に楽しんでもらいたいと、勝は49年に絹より安価なレーヨンで織った笠盛献上を発売した。貧しかった人々の心をつかみ、飛ぶように売れた。

和服離れ

 ただ戦後は和服離れが進み、帯だけではやっていけなくなる。62年に刺しゅう業を始め、72年には社名を「笠盛」として織物から手を引いた。

 笠原家には口伝えで残る家訓がある。「みだりにはんこを押すな」「大きくするな」「同じ商売が続くと思うな」―。代々の商売から得た学びが凝縮されている。

 康利会長は、社長に就任してからの約40年を振り返り「会社をつぶしてしまうかもしれないと思った時期もあった。いろいろと経験したけれど、やはり家訓はその通りだと分かりました」とかみしめる。

 

1877年 笠原嘉吉が帯専業の機屋として「笠嘉織物」を創業

1917年 社名を「笠嘉織物」から「笠盛織物」に変更する

 49年 「笠盛献上」が大ヒットする

 62年 刺しゅう業を始める

 72年 社名を「笠盛」に変更する

2001年 インドネシアに進出(05年に撤退)

 06年 県の「1社1技術」に指定される

 07年 パリで開かれた服飾資材展「モーダモン」に初出展。製品が「VIP Products」に    選ばれる

 10年 ブランド「トリプル・オゥ」を立ち上げる

 20年 工場や交流拠点となる「カサモリパーク」を開設

 22年 刺しゅう技術を凝縮したマスク「FACE DRESS」がグッドデザインぐんま商品の大賞に選ばれる

企業データ

▽所在地 桐生市三吉町

▽会社設立 1950年

▽従業員 約30人

▽事業内容 刺しゅうの相手先ブランドによる生産(OEM)やアクセサリーブラン      ド「トリプル・オゥ」の展開

▽拠点 本社、カサモリパーク(同市新宿)

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