東京高等師範付属国民学校時代の福田さん(前から2列目、右から2人目)。小学生時代は何度も転校を経験した 東京高等師範付属国民学校時代の福田さん(前から2列目、右から2人目)。小学生時代は何度も転校を経験した
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 私の小学生時代は戦争の末期と重なり、戦争に翻弄(ほんろう)された時代だった。小学校3年生までの3年間で五つの小学校を転々とした。長いところでも1年、短いところでは2~3カ月で転校した。

 南京から帰った私は、大塚にある東京高等師範(現筑波大)の付属国民学校に入学した。入学試験では、最後に自分の手でグルグルと抽選機を回し、ポトリと玉が出て合格した。当時は父の官舎(千代田区麹町)に住んでおり、毎日の通学は東京市電の路面電車。初めから独りで通学した。市電が皇居の前と靖国神社、忠霊塔の3カ所を通過する時には、車内から一斉に拝礼する。私も皆に習って片道3回、1日6回、頭を下げた。昼は学校給食だったが、食料不足で、毎日、米の中に大豆がたくさんまざっていた。

 官舎は三宅坂の今の最高裁判所の近くにあり、皇居のお堀に近かったので、お堀端の斜面が仲間との遊び場だった。その官舎も、私たち家族が群馬に疎開した直後に東京大空襲で完全に焼失し、父の蔵書や家族写真も失った。東京は危険だということで、大宮に一時疎開し、大宮南小学校に通ったが、わずか2カ月で東京に戻り、世田谷区野沢に移り住んだ。近くの東京第一師範(現東京学芸大)の付属国民学校に編入した。

 そこで1年近く学んだところで戦局が緊迫し、全校一斉に東京を離れることになった。クラスのほとんどは集団疎開で長野県に疎開したが、私の家族は父の生家の群馬郡金古町に、父を除く一家4人で移転した。私は金古国民学校の2年生、姉は5年生のクラスに受け入れてもらった。