


新左翼テロ組織、連合赤軍が群馬県内の山岳アジトで起こした構成員同士の殺人事件で、死亡した12人を悼む五十回忌の法要が27日、高崎市倉渕町三ノ倉の全透院で営まれた。参列した関係者が位牌(いはい)に手を合わせ、当時20代だった男女の霊を慰めた。
山岳アジト事件は、1971年12月~72年2月に榛名、迦葉、妙義の山々で発生し、同月末に決着したあさま山荘事件(長野県軽井沢町)の後に発覚した。
榛名山アジトで殺害された8人の遺体は、倉渕町内の峠道沿いの山林に埋められていた。住職の喜美候部謙史さん(58)によると、同院は事件当時、遺体の仮安置所となった。これが縁となり、元構成員の一人であさま山荘事件まで至った坂口弘死刑囚(75)の母らの呼び掛けで、十三回忌から定期的にここに集い、追悼してきたという。
この日は、連合赤軍の前身組織の一つ、共産党革命左派神奈川県委員会の構成員だった雪野建作さん(74)=東京都世田谷区=ら「連合赤軍事件の全体像を残す会」のメンバー7人が参加した。
法要で喜美候部さんは12人の名前をゆっくりと読み上げ、経を上げた。参列者は順に焼香し、手を合わせて冥福を祈った。
一行は、8人の遺体が埋められた現場近くにある碑も訪れた。卒塔婆を立て、線香を供えた。
雪野さんは「当時はもっと寒かったろう。遺体を運んだ人、冷たい土に埋められた人たちを決して忘れてはいけない」と話した。節目に増えた報道でさまざまな言説を目にしたといい、「同じような出来事は起きている。形を変えた連赤は今後も生まれるだろう」とした。
喜美候部さんは、当初から供養を続けてきた工藤宣夫元住職(故人)が彼らを「殉難者」と捉えていたと説明した。「誰が加害者、被害者になるか分からない状況だった。時代の被害者だったのかもしれない」と語った。
五十回忌法要は昨年営む予定だったが、コロナ下で延期されていた。