ミシンが並ぶ工場内。事業が苦しい時でも積極的に設備投資し、受注増につなげた
「他にないもの、新しいものをつくりたい」と製品に懸ける思いを語る片倉さん
モーダモンに出展したカサモリレースのサンプル
刺しゅう業を始めた昭和30年代ごろ彫った社名の看板。今も事務所前に掲げられている

 帯専業の機屋から刺しゅう業に転業した笠盛(群馬県桐生市三吉町)だったが、1970年代の石油危機で受注が激減した。エンジニアとして別会社で働いていた笠原康利会長(73)が後を継ぐために桐生に戻った直後のことだった。笠原会長は「こんなことになるなら、お前を呼び戻さなかった」と父親で3代目社長の勝さんが話したのを忘れられない。

 海外進出と撤退

 新たな受注を得ようと必死で営業に駆け回った。同時にどんなに苦しい時でも、品質を落とさずに納期を守ることは貫いた。そんな会社の姿勢は信頼につながり、着実に取引先が増えていった。設備投資も進め、勢いを取り戻した。

 上向きの勢いは海外進出にまで発展する。石油危機の最中でも注文をくれた取引先から、インドネシアでの事業に協力してほしいと要望され、1992年から技術指導員として社員を派遣。2001年には現地法人を立ち上げた。

 しかし、100枚単位で発注する日本企業と異なり、100万枚単位の仕事が動く世界市場の規模感には対応し切れなかった。2005年に撤退を選択。量産より技術力で勝負しようと原点の桐生に戻った。

 それでも、インドネシアからの撤退で経験したどん底は、今では会社の重要な利益の柱となったアクセサリーブランド「トリプル・オゥ」を生む原動力となる。戦い方の異なる市場を経験したことで、自社の高い技術力こそ最大の武器だと再認識できた。「この技術を世界に」。生き残りを賭け、パリで開かれる世界最大の服飾資材展「モーダモン」への出品を決意する。

 トリプル・オゥを生み出し、現在も事業を取り仕切る片倉洋一さん(45)は、05年に入社した。「会社がつぶれそうだったとは後から知りました」と笑う。片倉さんはロンドンでデザインを学び、パリを拠点にデザイナーとして働いた経歴を持つ。04年に帰国し、憧れのテキスタイル・プランナーの新井淳一さんに師事するため桐生にやってきた。

 「一人のクリエイターとして誰も作ったことがない新しいものを作りたい」。片倉さんらは新製品の開発に情熱を注いだ。出展するのも難しいモーダモンに07年に初出展。さらに刺しゅうで編み物のように仕上げる独自技術「カサモリレース」を活用したサンプルが、優れた製品に与えられる「VIPプロダクツ」に輝いた。

自社ブランド

 そこから6年間出展を続けた。笠原会長は「製品が評価されて最初は会場の一番奥だったブースが年々入り口近くになった。今まであったものを磨くと1プラス1が2でなく3にもなる」と振り返る。

 刺しゅう業はメーカーから服などを預かって刺しゅうをするため、取引先の業績に左右されてしまうことが多い。経営リスクを分散するため、刺しゅうを消費者に直接届けられる自社ブランドの開発が命題だった。

 モーダモンで刺激を受けた社内から刺しゅうを使ったアクセサリーなどが次々と生み出された。発展途上の刺しゅうアクセサリーをさらに高めようと、10年に「トリプル・オゥ」のブランド化に踏み切った。

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