2021/09/16【三山春秋】高浜虚子が俳誌『ホトトギス』に…
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 ▼高浜虚子が俳誌『ホトトギス』に雑詠欄を復活させたのは明治45年7月のこと。最も優れた作品が最初に掲載され、「巻頭」と呼ばれた。俳人は競い合い、巻頭に載ることを「巻頭を取る」と言った

 ▼脳神経外科医で俳人の中田みづほが念願の巻頭に輝いたとき、誤植で名を「田中みづほ」とされた。ドイツ滞在中のみづほは水原秋桜子に手紙を書き、〈おそらく生涯に一度のことだらう。それが姓名を誤植にされては泣いても泣ききれない〉と訴えている

 ▼巻頭を18回飾り、ホトトギスを代表する俳人となったのが高崎市ゆかりの村上鬼城だ。大正3年からの2年間は鬼城と飯田蛇笏が8回ずつ巻頭を分け合い、息をのむようなつばぜり合いを演じた

 ▼鳥取藩士の長男として江戸に生まれ、幼い頃に高崎に移り住んだ。軍人、司法官を志したが耳疾により断念。父の職を継いで高崎裁判所の代書人となった。〈麦飯に何も申さず夏の月〉。10人の子どもを抱えて貧困と不遇に甘んじたが、生涯を格調高く詠み、小林一茶と並ぶ境涯俳句の達人とされた

 ▼虚子と初めて会ったのは大正2年4月に高崎で開かれた俳句大会。虚子は鬼城がいることを知らず、図らずも最高位に選んだのが鬼城の〈百姓に雲雀揚つて夜明けたり〉だった

 ▼動物や虫などに温かなまなざしを注ぎ、自らを重ねて句を詠んだ。〈痩馬のあはれ機嫌や秋高し〉。あすは鬼城忌である。

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