肺炎の私、母の死 医療の停滞招いた戦争
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 1945年8月5日、夜10時半から、アメリカのB29大編隊が前橋を空から爆撃しました。市民535人が死に、市街地の8割が焼き尽くされました。

 父は家を守るため残り、祖母を先頭に、母が肺炎だった私を、姉が3歳の弟をおんぶし、すぐ上の姉や近所の人と朝倉の桑畑の方へ逃げました。照明弾で照らされ真昼のような明るさになり、焼夷(しょうい)弾がバラバラ落とされ、耳をつんざく爆音と炎が追いかけてくる中を防空頭巾をかぶり、みんな逃げ回ったのです。

 姉の背で「花火だ花火だ」と、はしゃぐ弟をたしなめ、祖母はありとあらゆる呪文、経文を唱えていたそうです。敵機が去った後、熱気のためか黒い灰まじりの雨が降り、その雨に打たれた私は死にかけていたそうです。

 お世話になっていたお医者さんは疎開され、薬もありません。家族が川でタニシを取り、つぶし、貴重なうどん粉と酢で練り、湿布してくれました。家族の思いが通じたのか、秋風が吹く頃には奇跡的に回復しました。

 しかし、長い間寝ていたので歩けなくなっていました。私の手をとり、父が毎朝出勤前「あんよは上手」と歩く訓練をしてくれました。病院やお医者さんに頼れず、心細い状況の中、家族の力で私の病気を治すしかなかったのです。

 空襲で家を焼かれた市街地に住んでいた親戚3家族が、焼けなかったわが家へ避難してきて、半年ほど40人くらいが一緒に暮らしました。

 そんな中、母は弟を産んで32日目に5人の子を残し、38歳で亡くなりました。食物の調達や、いろいろな気苦労や栄養不足だったのでしょう。今なら死んでしまうことのない大腸カタルでした。車のない時代ですから、疎開しているお医者さんを近所のおじさんが、リヤカーで迎えに行ってきてくださったそうです。そのかいもなく、病んで4、5日で亡くなりました。

 母の遺体を大八車に乗せ、火葬場へ行きました。幼い私は、母の死の意味も分からず、大勢の人が来て、にぎやかだったことくらいしか覚えていないのですが、配給のサツマイモをふかして持っていき、参列者に振る舞ったのだと、後に姉から聞きました。

 私の場合も母の場合も、戦争中の惨めな医療体制を大変残念に思っています。今は、ちょっと熱が出た、おかしいなど体の変化に気が付けば、すぐ手当てができます。かかりつけ医院、大きな病院、診療所など、医療機関がたくさんあります。夜間病院、日曜当番医制度など一年中安心です。救急車、ドクターヘリもあり、国民皆保険で安心して治療を受けられます。医学の進歩は目覚ましく、ありがたいのですが、高齢の私が病気になった場合、どこまでお世話になったらいいのか、考えてしまうこともあります。



きりえ作家 飯塚照江 前橋市大利根町

 【略歴】1939年生まれ。6歳の時に終戦を迎える。きりえ作家として活躍する傍ら、元保育士の経験を生かし、教育や子育てについての講演を行う。前橋女子高卒。

2019/01/04掲載

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