三笠焼酎工場跡 終戦後の懸命な姿伝え
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 終戦直後、「GHQによって天皇制は崩壊するだろう」といううわさが流れた。政府内では皇室の疎開地を探す動きが実際にあり、皇族が邑楽町南部まで足を運んだ記録が残っている。

 土地の提供を申し出たのは同所に広大な土地を持ち千代田村長を務めた川島源衛氏(故人)だ。宮内庁に知人がいたこともあり、三笠宮親王と侍従ら一行が実際に来県。新井豊策長柄(ながえ)村長が案内した。

 当時の新聞記事によると「埼玉群馬県境の昭和橋を経由し、先に川島源衛氏宅にお立ち寄りになられ、続いて視察に訪れになりました。車から降りたちになられた殿下はパナマ帽に瀟洒(しょうしゃ)な夏服でロイドメガネの奥の瞳に終始微笑をたたえつつお気軽にあいさつされました」と記されている。

 長柄村役場は手狭だったため、大邸宅の新井村長宅での歓迎となった。一行は館林飛行場開拓の入植者を激励し、館林市の正田文右衛門氏宅に泊り、帰京した。

 疎開予定地は県道足利邑楽行田線と県道足利赤岩線との間に広がる広大な山林で、ここを開発して疎開地とする計画だった。その後、新憲法が施行され、皇室典範で直系に当たる皇室は存続することが決まった。

 疎開予定地は宙に浮いた形となったが、川島氏ら8人の地元有力者が出資してこの地に「三笠焼酎工場」が設立された。お気づきと思うが、殿下にちなんだ社名を掲げた。工場には高さ約20メートルのコンクリート製煙突が建てられた。基部の直径は1.55メートル、煙突のたき口側と内周は耐火れんがが高さ5メートルまで積まれていた。

 原材料は地場産のサツマイモだった。しかし食糧難の時代だったため、サツマイモは貴重な食料であり、不足分は山野で採集したドングリの実で補い、混ぜて半々とした。最初の仕込みは1947年、農閑期で、若い衆や女性も臨時働きに来たという。増産のため冬季に2回仕込むこともあった。出来上がった焼酎は常滑焼のかめ(18リットル入り)に詰められ「花三笠」のブランドで、東京に出荷され、関東を中心に販売された。

 ところが3年目の50年が明けて7回目の大量仕込みで、すべてのモロミ樽(だる)に原因不明の雑菌が繁殖してしまう。結局、モロミはすべて廃棄され、経営は大打撃を受けて廃業を余儀なくされた。

 鞍掛工業団地の北側に広がる平地林。現在は竹が繁茂して人を寄せ付けない林となりつつあるが、その一角に煙突は今もそびえ立つ。杜氏(とうじ)や販売業者が寝泊まりした廃屋跡。大量に必要だった水をくみ上げた大きな井戸。目をこらせば竹林の中に当時の面影が残る。煙突の先端部分(約2メートル)は落下し、常滑焼のかめも数本しか残っていないが、確かにここに終戦直後の混乱の中で懸命に生きた先人の努力の跡があるのだ。



邑楽町文化財保護調査委員 大塚孝士 邑楽町中野

 【略歴】邑楽町社会教育課長、長柄公民館長などを歴任。水田3ヘクタールを耕作する農業従事者。趣味は山登り、サイクリング。館林高―専修大文学部人文学科卒。

2019/03/09掲載

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