バテレン山の叫び 禁教信じた民の心残す
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 邑楽町役場の西方に位置する広大な平地林は「バテレン山」と呼ばれていた。その近くには「ばれてんばし」が現存する。江戸時代の隠れキリシタンに由来する可能性がある遺構が町内には豊富に存在するのだ。

 バテレン山付近からは、十字を刻んだ墓石が出土しているほか、引回(ひきまわし)、火葬場(やきば)跡、猿楽(さるがく)跡、バテレン塚と呼ばれる地名・呼称が伝わっている。

 石仏をよく観察すると、一般的な仏教信仰に見られない「十(クルス)」が錫杖(しゃくじょう)、蓮弁などに刻まれている。石仏像は容姿がどことなく異国感があったり、背中に十字架を取り外し可能な細工がしてあったりもする。神社破風の懸魚(げぎょ)などに十字やハート形が装飾されているほか、年号が「天や星」で刻銘されているものもある。

 中でも1726(享保元)年建立とされる庚申塔青面金剛(しょうめんこんごう)像は隠れキリシタンを連想させる「蛇冠(じゃかん)」を頭上に乗せ、手には数珠や羂索(けんさく)ではなく、蛇を模したものを持つ。剣先に「十字」が彫られた石像は国内唯一で、宝輪、合掌する手、頭部の烏帽子(えぼし)、足下にも十字を見ることができる。

 如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)像は、右ひざを立て右手でほおづえをついて座っているのが一般的だ。ほおづえの格好には、右ほおに手のひらを当てるものと、あご下近くに指を軽くしなわせた手の甲を当てるものがある。

 ところが延宝年間から元禄に掛けて町内で造立された3体の如意輪観音は、右手の甲をあごの下に当てて、指先は左ほおの下まで伸ばしている。キリシタン墓石といわれる「逆手型如意輪観音像」の形になっているのだ。わずかな偽装を施すことで反仏教を意図的に叫んでいるようにもみえる。

 江戸時代の中野村、光善寺村の様子を伝える「神谷家文書」(邑楽町指定重要文化財)のうち、34(享保19)年の差出帳には「一切支丹之類之族無御座候」と記述されている。「村内にキリシタン関係者はいない」という意味だ。続いて「一御高札六枚切支丹弐枚御鷹番札弐枚鉄砲御法度札弐枚但弐カ所」とも記されている。

 キリシタンはいないと報告しながらも、わずか人口1500人の寒村にキリシタンを取り締まるための高札が2カ所に掲示されていたのも事実なのだ。

 禁教令が解かれたのは1873(明治6)年。その13年前に十三坊塚地内に道標併用の庚申塔が造立された。南へ行けば「仙元宮(せんげんのみや)(前原の浅間神社)」とあるが、もう一方は「やま」とだけ刻まれている。いったいどこの「やま」なのか確定されない。

 もしかしたら「バテレン山」と明示したかったが、時の幕藩の目を気にした結果かもしれない。「やま」という2文字にキリシタンの人々に便宜を図ろうという当時の民衆の心意気を感じるのだ。町の遺構を訪ねて歴史的ロマンを連想してみるのは、いかがだろう。



邑楽町文化財保護調査委員 大塚孝士 邑楽町中野

 【略歴】邑楽町社会教育課長、長柄公民館長などを歴任。水田3ヘクタールを耕作する農業従事者。趣味は山登り、サイクリング。館林高―専修大文学部人文学科卒。

2019/05/12掲載

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