「物知り」の価値 自分の鍛え方、再考を
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 知識、情報、経験は社会生活の基盤である。学校では生徒がそれらを効果的に獲得できるように工夫をする。そして多くの知識等を記憶した生徒は「優等生」としてある種の特権的な地位を得る。これが従来のゲームであった。

 私が大学に在学していた当時は、教員が教科書を読み上げる形式の講義も多かった。注釈が加えられない講義に「教科書を読めば十分。教室まで足を運ばせるな」と思ったこともあるが、特に珍しいことではなかった。要するに知識や情報の価値が高く見積もられており、それらの伝授こそが講義の主目的だったのだ。

 講義以外で知識を獲得するためには、主体的に知識や情報を持っている人、なかなか手に入らない本などに接近しなくてはならず、その難易度や費用は高かった。

 学生時代、お小遣いをやりくりし、3500円でCDを購入して文化を消費していた。出始めの頃のCDは高かったのだ。買い損なうと後から手に入れるのは困難な時代だったので、発売されたらすぐに買うことが多かった。もっと小さな頃はFM放送をカセットテープに録音して聴いていたこともある。音楽に接近し消費する手間や対価などの費用も高かった。

 科学技術の進歩により、「革命」が起こったのは1990年代後半である。インターネットの普及によって、あらゆる知識、情報、経験を低費用で手に入れることができるようになった。現在、知識や情報を手に入れるということについては、情報に対する判断能力さえ身に付けていればインターネットにより十分な水準で目的を達成できる。

 音楽はユーチューブで聴くことができるし、家にいながら美術鑑賞ができる。もちろん、実際に聴いたりみたりすることと同じ質の経験だとは言わないが、誰でも意欲さえあれば低費用で相当程度「物知り」になることができる。

 皆が知らない知識や情報を知っていたり、皆が体験したことがないことを体験していたりすることで、特権的であることは難しくなってしまった。個人的には良い世の中になったと思う。

 さて、「物知り」の価値は低くなった。知識を蓄えているだけでは駄目で、使いこなし何かを生み出すことが求められる時代だ。近年、能動的学習(アクティブ・ラーニング)の重要性が強調されている。私も、小学生の頃は「覚えること」を中心とした「読み書きそろばん」の基盤を養い、中等教育以降は「たくさん思考し、自分の考えを発信し、他者の賛同を得て、実行する」という訓練が大切だと考えている。必要な知識はその都度調べればよいのだ。

 科学技術の進歩に伴い社会におけるゲームのルールが変わった。社会で活躍したいと真剣に考えている人は、「自分自身の鍛え方」の戦略を見つめ直すとよい。



高崎経済大地域政策学部教授 佐藤公俊 さいたま市大宮区

 【略歴】2011年から現職。専門は政治学、公共政策。日本地域政策学会常任理事。宮城県出身。慶応大経済学部卒。同大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。

2019/06/16掲載

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