レンガ工場から倉庫に 中野絣と共に心震わす
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 大正から昭和初期にかけて木綿絣(かすり)は、邑楽町などを産地とする本県の中野絣と奈良・大和高田絣が品質・生産高で肩を並べ、トップの座を維持していた。

 中野の織物は白絣を中心に生産され、1919年には年産1200万円(現在価値にして約100億円)の盛況となった。1反は成人1人分の布を示すが、23年には242万人分の絣を生産したという記録も残る。

 中野銀座通りに面して15間半×7間のレンガ壁の工場(こうば)が建設されたのも、このころだ。次の時代を先取りして、毛織物市場をにらんだ織機を工場に導入しようとした計画があったようだ。外光を取り入れるため屋根はノコギリ状で、広さ約360平方メートルを誇った。

 しかし、工場は数奇な運命をたどる。織機を導入・稼働する前の23年に関東大震災が起こったため、中野絣の集配の拠点として利用され始めた。賃機(ちんばた)で織られた各地の製品がいったん、レンガ工場に集められ、中野絣の名に恥じない品質を保つため、厳しく査定・仕分けされ、全国に配送されたのだった。

 昭和に入ると戦時色が強まり、38年に織物などの製造が制限された統制経済が実施され、中野絣は大打撃を受ける。太平洋戦争が始まると中島飛行機の軍用物資倉庫(そうこ)となり、そのまま終戦となった。

 富士産業(現SUBARU)に名前は変わっても、化学薬品保管倉庫として7年近く使われた後、空手道場に、52年頃には「中野ローラースケートリンク」として若者たちの娯楽場に姿を変えたこともあった。

 床はコンクリートだったにもかかわらず、すでに相当でこぼこになっており、修理して開業となったと伝わる。しかし、長続きせず、再び売却話が持ち上がる。

 新たに利用する上での問題は「広すぎること」、レンガ造りのため改修費がかさむことだった。結局、中野農協(現JA邑楽館林)が米麦保管倉庫として取得。ノコギリ屋根を撤去して、レンガ壁をさらに、かさ上げした切り妻屋根の倉庫に造り替えた。内部は全面、モルタルで補強、政府指定倉庫の認可を受けた。

 一度、中に入ったことがあるが通年で室温、湿度がほぼ一定で、夏でもひんやり涼しかった。

 県道足利邑楽行田線に近く、レンガ倉庫は町のシンボルだった。南側の壁にはうっすらではあるが「中野ローラースケートリンク」の白文字が読み取れた。しかし2011年、東日本大震災の揺れで壁にひびが入るなどの被害を受ける。JAと町教委が保存方法について検討したが改修費などから保存を断念、12年8月に取り壊された。

 直前に開かれた延べ6回の見学会には、昔を懐かしむ人たちが足を運んでくれた。



邑楽町文化財保護調査委員 大塚孝士 邑楽町中野

 【略歴】邑楽町社会教育課長、長柄公民館長などを歴任。水田3ヘクタールを耕作する農業従事者。趣味は山登り、サイクリング。館林高―専修大文学部人文学科卒。

2019/06/23掲載

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