古墳出土品の隠存 戦後文化財行政の謎
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 上野三碑がユネスコの「世界の記憶」に登録された。秋になると頭をよぎるのは「多胡碑の隠存」である。終戦直後の1945年9月に、旧吉井町は群馬県の指導のもと、多胡碑を現在地から約60メートル東側の畑に埋めた。これは文部省からの指令で、進駐軍による接収を恐れての行動であり、地域住民の協力を得て行われたものである。

 また、戦時中には一ノ宮の東国敬神道場(現富岡市社会教育館)に群馬県史蹟(しせき)調査会所蔵の古墳出土埴輪等の優品が集められ、博物館の体をなしていたという。これらは、終戦間近に有志の寄付を仰いで収集したもので、「戦災を憂い」東国敬神道場に疎開、保管したと県庁文書にある。

 これらの発掘品も多胡碑の隠存の際に、3カ所に疎開することになり、高崎市の観音塚古墳からの出土品を中心に、北甘楽郡丹生村(現富岡市)の岡部栄信氏方の土蔵(現岡部温故館)に保管された。

 また、県内各地の国民学校で保管されていた多くの土器や埴輪(はにわ)を東国敬神道場の庭の防空壕(ごう)に埋め、それ以外の石器類などは県庁北側の土手下の防空壕に埋めたのである。これらは10月末までには完了したという。

 多胡碑の隠存についての理解は進んできたが、この古墳出土品等の隠存については、ほとんど知られていないのが現状である。3カ所の施設等の周知と保護が望まれる。

 そもそも、これらの出土品を東国敬神道場に疎開させたのは、丹生村長で、敬神道場顧問であった岡部氏と県との深い信頼関係があったからと考えられ、その後の岡部氏方の土蔵での保管へとつながったとみられる。

 史蹟調査会長と岡部氏との間では45年10月10日に覚書が結ばれた。「時局に鑑み、その所蔵せる古墳出土品の佚失(いつしつ)を防止し、これが保存のためその管理方を」岡部氏に依頼したことが書かれている。終戦により、既に空襲の心配はなくなったが、多胡碑の隠存と併せて、前橋や高崎の市街地から離れた場所で保管しようとしたのであろう。

 史蹟(当時はこの字を用いた)等の保護・管理を行った史蹟調査会は、教育委員会組織がまだなかった時代、県庁の所管課であった社寺兵事課に事務局が置かれた。

 文部省からの指令文書が残っていないことから、時局がら、隠存については口頭で指示がなされたと考えられ、史蹟担当であった丸山清康氏が指揮を執ったのである。この丸山氏は終戦前後の文化財保護行政に直接携わった人で、「上毛かるた」の解説を執筆したことでも知られている。

 地中に埋められた多胡碑は1年後の46年10月5、6の両日に再建された。しかし、岡部氏方などに隠蔵された古墳出土品等がいつの時点で旧に復されたのかは不明で、終戦直後の文化財行政における大きな謎である。



上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会調査研究部会員 松田猛 高崎市上里見町

 【略歴】県教委文化財保護課で埋蔵文化財や史跡を担当、県史編さん室で通史編2を編集した。小中学校の教諭も務め、高崎多胡小校長で退職。群馬大教育学部卒。

2017/11/11掲載

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