「講義」を考える 教える側も研鑽必要
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 以前本欄で、「物知り」の価値が低くなった、知識を使いこなし何かを生み出すことが求められる時代だ、という学ぶ側の心構えを書いた。そうであるならば、教える側はどうあるべきなのか。これが難しくて、私にはよくわからない。

 大学の授業の多くは講義形式である。物知りの価値が低くなったのならば、「知識の一方的な伝授を目的とした講義」も当然価値が低くなったはずだ。私は講義中に教室の時間と空間がゆるく感じられて、「講義という形は10年後にはなくなっているのではないか」と思うことがある。

 寝ている学生はほとんどおらず、みな真面目に聞いているしノートもとっている。授業としては立派に成立しているのだが、私が話している言葉が空中をさまよい、ゆるい時空が形作られている、そんな気持ちになるのだ。

 言い換えると「本を読めば3分でわかることを、なぜ10分間も話しているのだろう」という気持ちになる、ということ。ごくたまに授業中に寝る学生もいるが、それらの学生に対しては「3分の読書でわかることを10分も聞かされるのだから、頭の回転が止まってしまうのも仕方がない」と申し訳ない気持ちになる。

 読めば3分で済む内容でも、それを3分で話すのは現実には難しい。仮にそれができたとしても、読むのと同程度の理解はできないはずだ。このことを頭ではわかっていても、講義中は「自分はいったい何をしているのだろう」という思いにさいなまれる。

 この悩みと闘うために、私は二つのささやかな工夫をしている。一つは「学生にとって手に入れるのが難しい情報」を多く話すということ。教科書ではない書物等に基づく話や、足で集めた1次情報を伝えることには価値があると考えている。

 選挙制度について知りたければ標準的な教科書を読めばよい。しかしながら、群馬県の選挙区事情や議員の人柄については、学生はなかなか知ることはできない。そのような話を聞いて、政治や選挙に興味を持ったり理解を深めたりといったことはあるのではないか。講義で少しでも栄養分を与えるには、そのような「道草」が必要と考えている。

 もう一つは講義中に「今の理論について、具体例を用いて私に説明してください」という問いを出すこと。教えることが一番勉強になる、ということを教師はみな知っていると思う。同じ経験を学生にさせよう、という趣旨でそのような問いを発し、答案を書いてもらっている。

 要するに、この程度の工夫が私の能力の限界である。講義の欠陥の根本的解決からは程遠いことは自覚している。大学ではこれまで教育技術があまり重視されてこなかったが、それでは済まない。私は、とりあえずはゆるい時空から脱すべく、研鑽(けんさん)を積みたい。



高崎経済大地域政策学部教授 佐藤公俊 さいたま市大宮区

 【略歴】2011年から現職。専門は政治学、公共政策。日本地域政策学会常任理事。宮城県出身。慶応大経済学部卒。同大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。

2019/08/08掲載

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