疎開保育園 守ろう、子どもの笑顔
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 太平洋戦争末期の東京-。

 日に日に激しくなる空襲に恐怖し、終わることのない戦争に不安を抱えている時代。そんな恐怖と不安、そして皆が生きることにも苦労する中、子どもたちの命を守るために闘い抜いた若い保母(呼称は当時)たちがいた。

 実話をもとに作られた映画「あの日のオルガン」が10日、前橋シネマハウスでスタートする。

 1944年4月、東京都は本土空襲が必至となる中、幼稚園などに対し、閉鎖、休園または戦時託児所に転換するよう要請した。しかし、空襲時に子どもを1カ所に集めて守ることはほぼ不可能なことは容易に想像できた。

 当時の東京都品川の戸越保育所では、今後起こり得る空襲から子どもたちをどのように守るのか。保母をはじめとした関係者が頭を悩ませる日が続いていた。

 今よりも貧しく生きるのも困難、そんな時代でも子どもたちの命を最優先に考えていたのである。そして全国であまり例のなかった保育所の疎開が決まった。

 親たちの大反対にあったが、子どもたちのためと必死の説得をし、44年11月23日、上野駅の列車に乗って疎開保育園は始まったのである。

 原作である久保つぎこさんの著書「あの日のオルガン 疎開保育園物語」では、子どもたちの命を第一に考えている当時の親たちの回想が載っている。

 「この子が疎開に行く時には、おふとんから下着まで、嫁入りの時みたいに、みんな新しくしましたよ。もう会えないかもしれませんでしょ。…羽二重で作って、一番いいものを持たせましたよ。それは親の気持ちだと思いますよ」

 「サヨナラ イッテクルネってねぇ。行ってしまって…。つらいなんてもんじゃなくて、もう…。私たちが死んでも生き残ってほしいと思いましたよ。もしそうなったらなったで、その後のこの子がどんなみじめな状態で生きていくか、なんて。考えてもみませんでした。どうしてなんでしょうか。ただ、生きていてほしいと思いました。どの人もみんなそう思ったんじゃないでしょうか」

 疎開保育園は翌年3月10日の東京大空襲を逃れ、一人の犠牲者も出すことなく終戦の8月15日を迎えたのである。若い保母たちが53人の子どもたち全員を平和な時代に送りだしたこの物語は今の時代だからこそ伝えていく価値があるのではないだろうか。

 平和な時代を生きていると思っている私たちのもとには日々、子どもたちの虐待や貧困、殺人のニュースが流れている。世界中ではあちこちで内戦や戦争が起こっている。

 私たちには同じ過ちを起こさないよう記憶と記録を次の世代に伝えていく義務があると思う。命と平和な時代を守っていくために…。子どもたちの笑顔を守れるように…。



前橋シネマハウス支配人 日沼大樹 前橋市石倉町

 【略歴】5年ほど前に祖父が立ち上げた映画製作、配給会社「群馬共同映画社」に入社。2018年3月の劇場オープンに合わせて現職。前橋市出身。関東学院大卒。

2019/08/09掲載

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