上原隆さんのこと まずは自分がワクワク
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 弁天通り商店街から前橋駅へ向かう途中、5千円が入った封筒を落とした。2018年8月26日はそんな出来事から始まった。駅で僕はある人と待ち合わせた。ノンフィクション作家・上原隆さんである。この日は上原さんの新刊「こころ傷んでたえがたき日に」の読書会があり、ゲストとして本人が東京からはるばる来てくださるのだ。

 上原さんは、「心が折れそうになったとき、人はどのように自分を支えるのか」をテーマに、市井の人々に取材し、記事を書き続けている。

 僕が20代で駆け出しの物書きだったころ、たまたま上原さんの著書を読み、何げないけれど胸を打つドラマの数々に魅了された。同じような書き手になりたいと思い、ブログを立ち上げ、上原さんを意識した記事を書いていった。

 初めてお会いしたのは09年。著書に載っていた連絡先に、返事が来ることは期待せず、これまでに書いた記事を添えてメールを送った。翌日には返信が届いていた。新宿の居酒屋でお会いし、交流させていただくようになった。

 時を経て僕は、前橋にブックカフェバー「月に開く」をオープンさせた。本好きの人に喜んでもらい、街の活性化にもなればと、読書会などのイベントを定期的に開催していった。そこへ上原さんが来てくださったら、僕は言うまでもないが、前橋の人々も喜んでくれるに違いない。そんな思いから打診したところ、快諾してくださったのだった。

 当日は上原さん含め10人が参加した。神奈川からわざわざ来た方もいた。22編が収められている「こころ傷んで~」の中から、60年間新聞配達をしている老人、妻に浮気をされた男性、突然失踪した文芸評論家など、8編について皆で語り合った。参加者からのさまざまな意見や感想に、著者である上原さんも「そういう見方があるんだ」「本は読者のものだね」と楽しそうにおっしゃられた。

 約2時間の読書会が終わった後、上原さんはビールを飲みながら、参加者たちと気さくに交流をされていた。その光景を眺めながら、僕は感無量の思いに浸っていた。物書きとして計り知れない影響を与えてくださった方。萩原朔太郎を通じて縁が生まれた前橋という場所。僕の人生において大きな二つの点がつながり、人々にも喜んでもらえた。その橋渡しができたことがたまらなくうれしかった。人のため、地域のため、社会のためというより、まず自分がワクワクできることをしていきたいと改めて感じた。

 夕方になり、上原さんが東京へ戻る時間が来た。上原さんはビール代だと1万円を差し出し、「お釣りはいい」と言う。ゲストから代金はいただけないし、そもそもビール代は2千円程度でしかない。そう伝えると、上原さんは笑顔でこう言った。「だって君、5千円落としたんだろう?」



ジャーナリスト・ブックカフェバー「月に開く」店主 肥沼和之 東京都新宿区

 【略歴】新宿ゴールデン街でブックバー「月に吠える」を経営。萩原朔太郎に魅了され2018年春、前橋・弁天通りにブックカフェバー「月に開く」を開く。東京都出身。

2019/8/23掲載

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