明王院の揚船 水害常襲地の記憶残す
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 邑楽町赤堀の古刹(こさつ)、明王院本堂で天井を見上げると、その名の通り「揚船(あげふね)」を見ることができる。場所は本堂の南側廊下、長さ6.44メートル、幅1.28メートルで、板倉町で多く見られる揚船の大きさから比較すると大きい部類になる。

 この揚船のほかに、かつては本堂内東側に2隻、北側に1隻、西側の床下に1隻の計5隻があった。

 1910年8月、この地域を寛保、天明以来の未曽有の大洪水が襲った。利根川、渡良瀬川の川筋では次々と堤防が破れて集落、田畑を覆い尽くし致命的な惨状となった。多々良沼に続く低湿地、氾濫原に近いことから旧長柄村は総戸数の25.10%の人家が浸水した。浸水率は旧中野村15.77%、旧高島村5.09%で、長柄村の被害が最も大きかった。中でも赤堀地区は全戸浸水となり、約10日間の炊き出し救助が行われた。道路、橋、農作物はいずれも壊滅的な被害を受けた。

 この大水害の教訓から赤堀地区では浄財を出し合い、村の鎮守お伊勢様(神社)境内の杉の大木を伐採して船材とした。同地区には五つの集落があったことから、5隻の揚船が造船されたと伝えられている。

 47年のカスリーン台風による大水害では5隻の揚船は大活躍した。本堂から直接、乗り出せたと伝えられている。寺のすぐ南東から三軒家、近藤沼に続く低湿地はしばらく水が引かず、揚船が住民の足となった。そのすさまじさを物語るように、現存する揚船をよく観察すると、あちこちに泥流濁水の痕跡が印刷したように付着したままとなっている。

 その後、この低湿地は56年から赤三(邑楽町赤堀と館林市三林の意)土地改良事業が行われた。用排水路の分離工事と、ほ場整備による乾田化が主な柱の事業だ。事前調査のため明王院保管の揚船4隻が貸し出されたと伝えられている。ところが船は返却されず、近藤沼に係留されたまま放置されてしまったようだ。

 近藤沼では75年、県営干拓地整備事業が着工され、沼に浮かんでいた多くの和船は、持ち主に一時引き上げるよう連絡されたが、朽ちたり、所有者の判明しない船などは、この時点で処分された。おそらく明王院から持ち出された船4隻も、この時に不明になったと思われる。

 これらの船の造船された経緯はある程度判明したが、船大工などは分からず、明確なルーツをたどることができない。ただ村を構成する集落間の強い協働の精神によって、寺を中心に檀家(だんか)である村人の固い絆と結束力が、いざという時の災害に備えたことは間違いない。当時とすれば、明王院は格好の避難場所で、揚船を保管するのに広い本堂は最適だったのだろう。

 現在の邑楽の水田風景からは想像もできない水害常襲地だったことを揚船は語り続けているのだ。



邑楽町文化財保護調査委員 大塚孝士 邑楽町中野

 【略歴】邑楽町社会教育課長、長柄公民館長などを歴任。水田3ヘクタールを耕作する農業従事者。趣味は山登り、サイクリング。館林高―専修大文学部人文学科卒。

2019/10/10掲載

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